羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

飛浩隆『自生の夢』(河出書房新社)

あの夏は、どの夏だっけ?

あの海に行ったのはどの夏で、あの場所で花火したのはどの夏で、夕立上がりのあの道の香りを嗅いだのはどの夏なんだろう。

夏休みの永遠に続くかと思われた日々は、振り返ってみると一瞬にしか過ぎなかったように感じる。

様々な時間の中で、夏の時間だけ、その流れ方が異なりはしないだろうか。夏の時間は伸縮し、変質し、繰り返す。いつの夏休みにも「はじまり」と「おわり」 があるのに、その中の時間の流れ方は不可思議だ。

 

今日は平成最後の夏、平成最後の7月が始まった日。 今年はどんな夏になるのだろう、以下は、そんなことを考えながら読んだ/ 聴いた、ふたつの作品について。

 

ひとつめは、飛浩隆『自生の夢』(河出書房新社)所収の「星窓  remixed version」。本作は正直なところ、 短篇集『自生の夢』の中でなんとも微妙な立ち位置だ。収録順1番目の「海の指」は人類の終末期を幻想的に描く、 飛浩隆ケレン味を存分に味わえる作品、3番目「#銀の匙」 から最後の「はるかな響き」まで本書の2/3を占める連作となっている。その中で、「星窓 remixed version」 は浮いている。あまりに。 四国の半分ほどの浮き島に取り残された人類の終末観と、最低保障情報環境基盤から発生した“文字”の暴走に挟まれて、少年のひと夏の不思議のひと触れ――「星窓 remixed  version」はどうしても肩身の狭そうな印象を受ける。そもそもremixedとあるように、この作品自体が『 ポリフォニック・イリュージョン』(河出書房新社)にも収められている飛浩隆の初期作品群を継ぎ接ぎして書かれたものだ。 やはり、大柄な作品ではない。それでもこの作品に、今日どうしても惹きつけられた。

 

念願の、ひと夏をかけての宇宙旅行をふいにやめてしまった少年。なんのアテもない無計画な夏休みの始まる日、彼は古い星窓宇宙の姿を切り出して額に収めた(ような)機械を購 入する。その日から、彼の周りに不思議なことが起こり始める―― 。

 

『日めくりはめくられていくはずなのに、たくさんの出来事が起こっているはずなのに、夜になると姉が現れサマーコートを脱いだり、濡れた髪とパジャマ姿で入ってきたりする。そのとたんなにもかも夏休みの初日に巻き取られていく。

 過去も、未来も、起こらなかったことも、ねじも、芝も、姉も、白日夢も、そして姉とぼくも、このテーブルとグラスのまわりに回収されてくる。

 それを肴にふたりで酒を飲む。ほとびた梅干をしゃぶり、丸くなった氷を齧る。ああだこうだとくだらない話をする。

 気がつくと姉の姿が消えている。

 そして星窓をのぞきこむ。あいかわらずそこにはなにも映らない。 』(「星窓 remixed version」)

 

夏への闖入者たち、宇宙を切り取った窓、存在しないはずのコケティッシュな姉、寒天状の知性ある巨大な単体細胞、白日夢。そこで起こる時の流れの不規則変化。

それは、飛浩隆によってアレンジメントされたサマー・タイム・ トラベルというテーマ。忘れていたのだ、SF作家たちはその感覚を何度も作品にしてきたことを。これもまた‟ 夏の時間は伸縮し、変質し、繰り返す”、その不可思議性を内包して作られた作品だった。

 

もうひとつは、玉名ラーメン「砂漠の中のビスケット」。こちらは小説ではなく、ネットレーベル、慕情tracksのリリ ースしたコンピレーション・カセット(!)・アルバム『慕情 in da tracks』の収録曲(B面1曲目)。これまでなんとはなしに何度も聴いていたのだけれど、ふと歌詞に意識を沿わせてみると、そこには夏の時の流れを感じてしまう(ちなみに、 レーベル主はライナーノーツに冬の朝におすすめと書かれている。確かにそういう感じもする。まあほんとうの名曲なんでしょう)。

 

〈知らない文字で書かれた手紙 ドトールのミルクレープ  大切にしていたクマの ぬいぐるみ 切りすぎの前髪と  へんな気持ち 忘れてしまうんだ ぜんぶ 楽しく時間が溶ける  キラキラ見える 平坦な日常 一瞬の夢を生きようよ!〉 
〈いつかおわる なんて悲しいこと言わないで  ラーメンすすってもごまかせないでしょ ねむねむ ダラダラ  昼まで布団の中にいたい ずっと ぬるま湯  ちゅるんと生きていたいの 永遠の夢を生きようよ〉

一瞬であり、永遠である、夏――夏休み――青春というリンク、あるいは束縛が、様々な学生時代を過ごしてきたにも関わらず、わたしたちをどこかにある記憶の共同体(あるいはバンク?)に繋ぎとめている。そこからこぼれたような歌詞。ポップ―― ほんとうにそう?――ながらその射程は広く、深い。さらに感心させられたのはパンチラインとして繰り返される、〈私の初期のツイッター名 砂漠の中のビスケット 今はもうない  架空の存在〉その中の「初期」という言葉が歌詞全体に波及させている感触だ。少女(/少年)という本来歴史を持たない存在から発されるその言葉。もはや現代のわたしたちはどんな年齢であろうとSNSの中にある架空の存在として、様々な人格で、 様々な種類の時間の幅を獲得できる。少女は、青春は、夏休みは、夏は――それらの時間は、伸縮し、変質し、繰り返されている。この歌は、その中にありながら、通底して存在する気持ちに呼応されるよう歌われている。のでは。

 

そこまで考えて、

夏の時間に覚える不可思議さ、その原因は夏の記憶が‟ リミックス”を要求するからでは、という考えに思い至る。 根本的な理由は定かではない、しかし、わたしたちの夏の記憶はその夏がどんな夏だったかを思い出すとき 、記憶をシャッフルし、再配置し、そこに新たな夏を立ち上げているような気がする。考えれば考えるほどそんな気がしてくる。そうやって、わたしの夏の記憶の順序と秩序は失われていく。わたしの中の夏の記憶が、魔物が、夢を見せようとしているのだろうか、白日夢の集積、最高の夏を、カセットテープを編集するように、リミックスを行うように。

 

今年また素材としての夏が始まる。

 

 

 

「砂漠の中のビスケット」/玉名ラーメン

音源:https://m.soundcloud.com/user-tamanaramen/biscuit-in-desert

歌詞:https://bojoutracks.bandcamp.com/track/06

ライナーノーツ:https://bojou-letters.tumblr.com