羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

トルーマン・カポーティ『夜の樹』(新潮文庫)

逃げ場などないのだということをなんどもなんども実感する。

8月、とても慕わせて頂いた方が自ら命を断たれた。同じ月にネットの知り合いも同じことをしていたと、翌月になって知った。今までに死ぬことについて、考えていたこと、費やしてきた時間、すべて無駄になった。8月のある日に現実が定義を書き換え、それまでの執筆者たちは永遠に弾劾されることになった。現実における死の感触、不可逆性、無機質さ、非連続性、あんなものはなにものより暴力だ、完全にあてられてしまった。思考の枝葉が伸びる際、私の頭の中のその領域、8/4のエピソード群に触れる瞬間、枝葉はその成長を止めてしまう。あるいは無為回路に入り込んだ電流のように、抵抗に削られつつその力を失っていく。あたまのかいてんがにぶくなったとかんじるひがふえた。

もうそこから、みつきもの間、動けないでいる。

頭が働かなくても、体は勝手に動くものだから、わけのわからないことを沢山したし、している。抜き差しならない方へ進んでいく。ひとりかふたりの友人が声をかけてくれるが、残りは、にやにやしている。

ここまで書いてみて、これだけがこの150日ほどの私信なのかと考えたら、ほっとした。たいしたことでないように、見えた。


本の話を少しだけ、
『夜の樹』は、カポーティに関するつまらないイメージを吹き飛ばしてくれた。カポーティはお洒落な都会派の作家などではなく、集合、集団で逆説的に孤立していくタイプの、飢えを抱いた因果な人間(人間の因果?)を描写してしまう作家(ティファニー、で気づけなかったのは本当にボンクラだなあ……)。自分の全ては所有されたくないが、他者を全て所有したいという欲望を余さず描いてしまったのは、カポーティにとってはマゾヒスティックな快楽だったのかもしれない。
所収作、「無頭の鷹」を読みながら確かに思う。そのような充たされない欲望を前にして、人がどうして狂わずにいられよう?

『やがて彼は緑色のレインコートを着た女の子を見つけ出した。五十七丁目と三番街の角に立っている。そこに立って煙草を吸っている。何か歌を口ずさんでいる。レインコートは透明で、黒っぽいスラックスをはいている。素足でかかとの低いサンダルをはき、男ものの白いシャツを着ている。髪は淡い黄褐色で、男の子のように短く切っている。』
『やがて、彼女がゆっくりとした足どりで、街灯の下に近づいてきて彼の横に立つ。空は、雷で割れた鏡のように見える。雨がふたりのあいだに、粉々に砕けたガラスのカーテンのように落ちて来たからだ。』(「無頭の鷹」)

ではまたしばらく。