羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

飛浩隆『自生の夢』(河出書房新社)

あの夏は、どの夏だっけ?

あの海に行ったのはどの夏で、あの場所で花火したのはどの夏で、夕立上がりのあの道の香りを嗅いだのはどの夏なんだろう。

夏休みの永遠に続くかと思われた日々は、振り返ってみると一瞬にしか過ぎなかったように感じる。

様々な時間の中で、夏の時間だけ、その流れ方が異なりはしないだろうか。夏の時間は伸縮し、変質し、繰り返す。いつの夏休みにも「はじまり」と「おわり」 があるのに、その中の時間の流れ方は不可思議だ。

 

今日は平成最後の夏、平成最後の7月が始まった日。 今年はどんな夏になるのだろう、以下は、そんなことを考えながら読んだ/ 聴いた、ふたつの作品について。

 

ひとつめは、飛浩隆『自生の夢』(河出書房新社)所収の「星窓  remixed version」。本作は正直なところ、 短篇集『自生の夢』の中でなんとも微妙な立ち位置だ。収録順1番目の「海の指」は人類の終末期を幻想的に描く、 飛浩隆ケレン味を存分に味わえる作品、3番目「#銀の匙」 から最後の「はるかな響き」まで本書の2/3を占める連作となっている。その中で、「星窓 remixed version」 は浮いている。あまりに。 四国の半分ほどの浮き島に取り残された人類の終末観と、最低保障情報環境基盤から発生した“文字”の暴走に挟まれて、少年のひと夏の不思議のひと触れ――「星窓 remixed  version」はどうしても肩身の狭そうな印象を受ける。そもそもremixedとあるように、この作品自体が『 ポリフォニック・イリュージョン』(河出書房新社)にも収められている飛浩隆の初期作品群を継ぎ接ぎして書かれたものだ。 やはり、大柄な作品ではない。それでもこの作品に、今日どうしても惹きつけられた。

 

念願の、ひと夏をかけての宇宙旅行をふいにやめてしまった少年。なんのアテもない無計画な夏休みの始まる日、彼は古い星窓宇宙の姿を切り出して額に収めた(ような)機械を購 入する。その日から、彼の周りに不思議なことが起こり始める―― 。

 

『日めくりはめくられていくはずなのに、たくさんの出来事が起こっているはずなのに、夜になると姉が現れサマーコートを脱いだり、濡れた髪とパジャマ姿で入ってきたりする。そのとたんなにもかも夏休みの初日に巻き取られていく。

 過去も、未来も、起こらなかったことも、ねじも、芝も、姉も、白日夢も、そして姉とぼくも、このテーブルとグラスのまわりに回収されてくる。

 それを肴にふたりで酒を飲む。ほとびた梅干をしゃぶり、丸くなった氷を齧る。ああだこうだとくだらない話をする。

 気がつくと姉の姿が消えている。

 そして星窓をのぞきこむ。あいかわらずそこにはなにも映らない。 』(「星窓 remixed version」)

 

夏への闖入者たち、宇宙を切り取った窓、存在しないはずのコケティッシュな姉、寒天状の知性ある巨大な単体細胞、白日夢。そこで起こる時の流れの不規則変化。

それは、飛浩隆によってアレンジメントされたサマー・タイム・ トラベルというテーマ。忘れていたのだ、SF作家たちはその感覚を何度も作品にしてきたことを。これもまた‟ 夏の時間は伸縮し、変質し、繰り返す”、その不可思議性を内包して作られた作品だった。

 

もうひとつは、玉名ラーメン「砂漠の中のビスケット」。こちらは小説ではなく、ネットレーベル、慕情tracksのリリ ースしたコンピレーション・カセット(!)・アルバム『慕情 in da tracks』の収録曲(B面1曲目)。これまでなんとはなしに何度も聴いていたのだけれど、ふと歌詞に意識を沿わせてみると、そこには夏の時の流れを感じてしまう(ちなみに、 レーベル主はライナーノーツに冬の朝におすすめと書かれている。確かにそういう感じもする。まあほんとうの名曲なんでしょう)。

 

〈知らない文字で書かれた手紙 ドトールのミルクレープ  大切にしていたクマの ぬいぐるみ 切りすぎの前髪と  へんな気持ち 忘れてしまうんだ ぜんぶ 楽しく時間が溶ける  キラキラ見える 平坦な日常 一瞬の夢を生きようよ!〉 
〈いつかおわる なんて悲しいこと言わないで  ラーメンすすってもごまかせないでしょ ねむねむ ダラダラ  昼まで布団の中にいたい ずっと ぬるま湯  ちゅるんと生きていたいの 永遠の夢を生きようよ〉

一瞬であり、永遠である、夏――夏休み――青春というリンク、あるいは束縛が、様々な学生時代を過ごしてきたにも関わらず、わたしたちをどこかにある記憶の共同体(あるいはバンク?)に繋ぎとめている。そこからこぼれたような歌詞。ポップ―― ほんとうにそう?――ながらその射程は広く、深い。さらに感心させられたのはパンチラインとして繰り返される、〈私の初期のツイッター名 砂漠の中のビスケット 今はもうない  架空の存在〉その中の「初期」という言葉が歌詞全体に波及させている感触だ。少女(/少年)という本来歴史を持たない存在から発されるその言葉。もはや現代のわたしたちはどんな年齢であろうとSNSの中にある架空の存在として、様々な人格で、 様々な種類の時間の幅を獲得できる。少女は、青春は、夏休みは、夏は――それらの時間は、伸縮し、変質し、繰り返されている。この歌は、その中にありながら、通底して存在する気持ちに呼応されるよう歌われている。のでは。

 

そこまで考えて、

夏の時間に覚える不可思議さ、その原因は夏の記憶が‟ リミックス”を要求するからでは、という考えに思い至る。 根本的な理由は定かではない、しかし、わたしたちの夏の記憶はその夏がどんな夏だったかを思い出すとき 、記憶をシャッフルし、再配置し、そこに新たな夏を立ち上げているような気がする。考えれば考えるほどそんな気がしてくる。そうやって、わたしの夏の記憶の順序と秩序は失われていく。わたしの中の夏の記憶が、魔物が、夢を見せようとしているのだろうか、白日夢の集積、最高の夏を、カセットテープを編集するように、リミックスを行うように。

 

今年また素材としての夏が始まる。

 

 

 

「砂漠の中のビスケット」/玉名ラーメン

音源:https://m.soundcloud.com/user-tamanaramen/biscuit-in-desert

歌詞:https://bojoutracks.bandcamp.com/track/06

ライナーノーツ:https://bojou-letters.tumblr.com

 

 

ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫)

川崎の飲み屋街をはしごしたものの、終電にはなんとか飛び乗れた。最寄り駅に帰りつけた喜びにそこら中を闇雲に散歩してみる。湿気た夜の酸味を爆音でイヤホンから流れるゆらゆら帝国で中和しながら思う。 

 

クレジオなんて読まなくていいから、坂本慎太郎を聴けばいいのに。

 

先日読んだ『悪魔祓い』は、クレジオがメキシコシティーラテンアメリカ研究所に所属していた際に出会ったインディオ文化を題材に、その文化をかなり直感的に分析した作品だった。文明批判としては今や紋切り型(パパラギ然り、ピダハン然り)で、皮肉にも“未開の密林に対する文明人の興奮”という雰囲気は全編ぬぐえないながら、熱狂的な詩篇として読むと、酩酊感があり、幻視的であり、つまり良い詩の条件を揃えている。 

 

さらに、ビート感にもすさまじいものがある。以下は、ひき蛙たちの重なり合う鳴き声から、クレジオが幻視し、幻聴した世界についての詩篇

『夜の闇のなかで、ひき蛙の鳴き声が止まない。それはばらばらになったかと思うと合し、一つ一つの声を聞きわける術はない。それは低く、高く、弱く、強く立ちのぼる。声を発している喉も見えぬまま、それらは次々とつけ加えられる。その声は、闇をふくらませ、闇を完全に満たして他のすべての音を排除する。もはやそれらの声しかない。言語、木の葉のすれあう音、水滴、呼吸、昆虫のざわめき、もはやなにものも存在しない。要するに、なにるのも表現しないがゆえの全的な言語。ただ単なる呼びかけ、欲望、音に変貌した生命。ところせましと立ちならぶオルガンのパイプ。それぞれのパイプが、気息や楽節や心臟のリズムや気管支の運動と無関係に、ぎすぎすした音を発している。』

『恐怖をうち壊し、死をうち壊す執拗な鳴き声、呪術的な鳴き声。ひき蛙はいたるところにいる。彼らは、ただ鳴き声をあげるために、世界のなかに、夜のなかにひろがっている。彼らは、動かない。姿を現わさない。彼らは生き、死ぬことがない。百、三百、一万もの鳴き声は、交錯し、邪魔しあい、一体となる。ひき蛙は何匹いるのか。彼らは、倦まずふくらんだり、しぼんだりする彼らの喉によってしか存在しない。冷え切った酩酊。それは彼らの体や頭脳のなかにあるのではなく、彼らの声のなかにある。音によって世界を麻痺させてしまう酩酊だ。鳴き声は、呼吸音を真似ている。しかしそれは呼吸ではなくて、生命の分割だ。ひき蛙はいたるところにいる。すべてはひき蛙となった。空気、水、森、樹々の葉、月、雲、河、地を這う影、動物たちの目、そしてたぶんかなたでは、都市、靄の立ちこめた街路、自動車の車体、女たちの顔、戦火の響き。それらは、沼のなかに坐りこみ、向かいあいながらも、互いの姿は見ずに鳴き続けるひき蛙なのだ。』

 

あるいは、“歌ならぬ歌”についての神秘的な詩篇

『男は男どうし、女は女どうしの二人ずつの組になって地面に腰をおろし、インディオたちは、全力をあげて、しかも《小さな声で》歌う。彼らは抱きあい相手の耳もとにむかって歎き悲しむごとく歌う。一方が息切れして中断する。すると、今度はもう片方が自分の口を仲間の耳に近づけて歌う。こんな具合に、一晩中、倦むことなしに奇妙な個人的オペラがくり広げられるのだ。だれも聴いていない。だれも歌っていない。音楽は、だれのためになされるものでもなく、なにものも与えない 音楽には聴衆もいないし、俳優もいない。酔っぱらった女たちが、目を閉じ、交互に相手のほうに身を寄せては歌う。高い小さな声は、ほとんど沈黙を破らないくらいである。それは告白であり、打ち明け話であり、秘密である。しかし、気晴らしや説得のためのものではない。ささやかれた声は、注入されるための一つの耳を、ただ一つの耳だけを探し求めている。声にとって、共同体を支配することや、大勢の人間たちを魅了することなど必要ない。やむを得なければ、耳などぜんぜん必要ですらないのだ。』

『実際、歌には、どんな愛も憎しみも、どんな喜びも悲しみもこめられていない。それは抽象的なものだ。この女の内部で一つずつつくられ、だれもそれに出会うことがない詩。それは、紙の上に描き出されるにつれ燃やされてしまうデッサン、つくられる過程で壊されてしまう作品のようだ。歌はそれ自身のため、もっぱらそれ自身のためにある。彼女の歌ーーというのも、ここでは、一人一人の女や男がそれぞれ《自分の》歌をもっているからなのだがーーの言葉でもって、女は自分の顔の線を一本一本描き、それからそれを消す。女が沈黙するとき、なにも、絶対になにも残らない。』

 

対照的に、詩篇でない部分でクレジオが繰り返し論考しているのは、自己を反映しない芸術についてである。インディオの芸術(呪術としての演劇、あるいは歌、紋様や絵画)は自己をその作品世界に投影せず、その代わり宇宙や自然の中に人間を位置づける機能を持つと分析している。

 『インディオたちは人生を表現しない。彼らには事件を分析する必要がない。彼らは、神秘の表徴を生き、記された跡をたどり、呪術が与える指示にしたがって、語り、食べ、愛しあい、結婚する。要するに芸術、それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にしての個人の惨めな問いかけなどではない。芸術とは、人間の集団がいだいた宇宙についての印象であり、細胞の一つ一つと全体とのつながりであるがゆえに、それは芸術なのだ。』

『言葉を殺すための音楽、言葉よりも早く進むための音楽。理解するための音楽ではなく、苦しくて、極度に意識的な熱狂。するとたちまちのうちに、宇宙の模様が見られ、聞かれ、感ぜられ、知られる。一閃のきらめきのうちに社会のかなたに達する音楽。』

 

しかし、このようにクレジオが驚嘆し、発見したインディオの芸術を、90年代からゼロ年代にかけてのゆらゆら帝国はいとも自然に体現した。

そのひとつ目の方法は、その歌詞世界において明示されている。

「昆虫ロック」では“透明な体を手に入れろ”、「ソフトに死んでいる」では“いいたいこともない/つたえたいこともない”、「あえて抵抗しない」では“さしずめ俺は/一軒の空家/ちょっとしたくぼみ”、「順番にはさからえない」では“全部が俺の前を通り過ぎていく”、「通りすぎただけの夏」“そろそろ/僕は消えるよ/さりげなく”、「ロボットでした」では“踊りだす/こころここにはない”。空っぽさ、意志の不在は、ゆらゆら帝国の歌詞中に散在しているテーマだ。さらにその視点は三人称に固定されている歌詞が多く、自己の不在と俯瞰の視点が相俟ってゆらゆら帝国の歌詞世界に透明感を与えている。透明感、というよりは、その歌詞ひとつひとつに含有されるコンテクストの希薄さをそう捉えているのかもしれない。“きみ ”や“おれ”が出てくる際にすら、その二人の関係性には一切因縁めいたもいたもの、意味性を感じさせない。そこで表現されているのは、あらゆるものが世界のあるべき場所にあることを、“私/僕/おれ”を通して世界自身が確認しているに過ぎないという実感だ。実際、ゆらゆら帝国はその活動の最後に、自身を「空洞です。」と表現するに至った。

透明になった自分の体を、通路のように何かが通り抜けていく、世界が交通するという幻視が、そこにはあった。

以下は『悪魔祓い』の一節。

『歌うとは、音楽を奏することではない。それは理解不能なある言語の助けを借りて、目に見えない世界と連絡することである。声と声が、お互いの声を聞く必要さえもなしにこのようにして結びついてしまう不思議な力。夢想の世界、ひそかな欲望、恐怖は、酩酊と死の世界。その世界が、現実とほとんど分かちがたいほどごく間近に、そこにある。その世界に達し、それを見るためには、人間の創造にかかわるこのわずかな変化で充分なのだ。律法がつくられ、律法が意図して恍惚への道を閉ざしてしまっているときには、このような違反、このような暴力を考えださなければならない。』

2つ目の方法は、坂本慎太郎の声ではなく、ゆらゆら帝国の持つもう一つの声によって為される。ファズによるノイズ・ギターによって。ギターエフェクターであるファズは、原始的な増幅機、発振器であり、ゆらゆら帝国の曲中のそこかしこで絶叫する。

『悪魔祓い』からの引用である以下の文章を読んでから「貫通」を聴いてみる、たちどころにこの文章が“実感”されることだろう。言葉を尽くす必要はない。手のひらに乗る、小さな金属の箱、ファズ。その電子回路から遠い南米インディオ達の声は発された。

『かん高い歌声は、その速度ゆえに沈黙と合体する。言葉のすべての意味を汲みつくしたとき、すべての文章とすべての問いを消耗しつくしてしまったとき、言語の果てるところ、言葉の終わるところで、言語は、集約され、凝縮されて、一種の細身の投槍のようなものに変る。イグアナの体をつらぬき通す、すべすべした銛のような、はね一つあげずに水中に射込まれたときの矢のような、インディオの歌。声の果てにある声、増殖する声、プリズムからほとばしり出て、出会うものすべてを焼きつくす緊密な細い光線。』

 

3分間の曲で実感できることを、ノーベル文学賞作家だからといって、長々と時間をかけて読んでやることはない。そんなことを考えながら、散歩を終えた。

 

カトリーヌ・アルレー『わらの女』(創元推理文庫)

嘘を“吐いても”いいが、嘘を“吐かされては”ならない。
今年最後の一冊は、そんな実感をじわりと身に染み込ませてくれた。

 

『彼女はすべての策謀が始められたこの日を、あとになると決して忘れることができなくなる。しかし、今はそれを知る由もなかった。その日も、ただ、一週間のうちの単なる一日であり、他の日より悲しくも、嬉しくもなかった。』(『わらの女』)
カトリーヌ・アルレーわらの女』。今年の夏、神保町で初版本を見つけ、下宿に積んでおいたのをなんの気なしに帰省のお供にした。64年の訳だけあって、いかにも古典という文体に半ば辟易しながらぼーっと読んでいたら、いつの間にか、してやられた。是非ご一読あれ、という系の一冊。

ストーリーライン、ミステリとしての部分もさることながら、地味にツボなのが、主人公が、ハンブルク大空襲によって家族も青春も奪われた、という設定。
『爆撃の時代、女としての彼女の生活に、決定的な刻印を押してしまった時代、うちくずされた街の混沌の中の鼠のような毎日、恐怖と、飢えと、寒さと孤独の習慣。』
『二人は、自分たちの持っている、いちばんいいもの、若さと、官能と優しさを交換し合った。生きているもの、若く強いもの、それをすべて与え合った。せめて誰かがそれを楽しめるように、そして二人の死がまったく無意味にはならないことを願って。それは、一晩つづいた。ただの一晩だけだった。』(『わらの女』)
ここには、彼女をより高い所から“突き落とす”ための落差に留まらない悲壮さがある。彼女は全てを奪われ、その中心には無がある。無は有を要求し、そこに餓えが生じる。餓えは人を切迫させ、人はあらゆる行動を取る。例えば、嘘を吐く。

 

今年も切迫した私は、数え切れない嘘を吐いて過ごしてきたが、最近ようやく、嘘を吐いている状況と嘘を吐かされている状況を区別できるようになってきた。この人の前で、私は嘘ばかり吐いているな、という人を見分けられるようになった。
ほんとうに彼女たちは、嘘を吐かせるのが上手い。彼女は私の内面的な矛盾を丁寧に把握しているのだ。矛盾が露呈する度に、彼女は説明を求める。説明を試みたところで、勿論上手くはいかない、説明の糸口が見えたところで、嘘に依ってできる一時的な解決口だ。なのに、それは一端許諾される。なに、追求は一度に止まらないからだ。同じテーマについて何度も説明が要求され、土台があやふやな説明にやがてガタが生じる。それを以て、私は嘘吐きと糾弾される。確かに私は嘘を吐いた。しかし、それは私のためだけの嘘だったのだろうか。異議は受け付けられない。何故なら私は嘘吐きなのだから。そんな時に、「あなたは嘘吐きだし。わたしのことだって好きじゃないんでしょう」。すかさず、そんなことはない、と答えてしまう。また、嘘を吐いている。こんな風な問いかけをされて好きになれるわけがない。だが吐く意図がなかった嘘で嘘吐きという不名誉を与えられたくはない。

“私は、このひとに、信用してもらわなければならない” 信用を得るため、歓心を買おうと努めている私は、ほとんど彼女にかしずいていることに気付く。
嘘を吐いて生じる破滅より、嘘を吐かされて至る破滅のほうが、痛みを伴う。

『両手の下の彼女のからだは、あたたかく、生き生きして、油ぎり、疲れのきざしを見せるまでには、まだ何十年もの歳月に堪えそうに見えた。それに、彼女の目もまだ見えた。そして、それがおそらくいちばん苦しかった。もう決して、木も、海も、長い海岸線の黄金色の砂も、見られない……こんなときに泣いたのを彼女は後悔した。』(『わらの女』)

 

実際、嘘を吐かなければならないという状況を作るのに長けた人も、それを用いて他者をコントロールしようとする人も、意外と少なくはない。幸いにもそのような目に遭わずに来たという人たちには、史実のハンブルク空襲を題に取り、廃墟の街の住民が抱える喪失感を綿密に描いたノサックの『死神とのインタヴュー』からの一節をお贈りしたい。
『深淵はわたしたちのすぐ近くにあった。それどころか足下にあったのかもしれない。そしてわたしたちはなんらかの恩寵によって、その上方をただよっていたにすぎない』(「死神とのインタヴュー」)

 

願わくば来年も、あなた方に“なんらかの”恩寵があらんことを。

神林長平『小指の先の天使』(ハヤカワ文庫JA)

透明--透徹な神林長平の世界観を、いつから受け付けられなく感じるようになったのだろう。少なくとも高校生の頃の私は、思考する機械に憧れたし、体温を感じさせないが故に磨かれた人間の魂への讃歌へ共感したものだが。


年末の雑事の隙間に、犬の話と猫の話を読んだ。
犬の話は、松浦理英子『犬身』(朝日文庫)。上巻で溢れるように描かれる犬への愛、というよりは犬という存在へのフェティシズムが奇書感を際立たせて大変ご満悦だったのだが、下巻に至ってテンポの悪い犬視点のサイコサスペンス調のなにかに成り下がるという大どんでん返しを味わわされた。きっての猫派の私としては所詮は犬っころの話と思い、口直しにと思って手に取った『小指の先の天使』の「猫の棲む処」は神林長平の世界観そのものであった。

『ヒトは、言語的な理解を決して許さない大自然界と、自らが生じさせて支えている人工的な世界とを、ペットを介して結びつけている。ペットは単なる愛玩動物ではない。人工的な言語世界と自然界とをつないでいる接点だ。』
『(そうだ、知られずに、生きていくがいい。ヒトの幻想の外で生きるんだ、ソロン。)』
(「猫の棲む処」)

そこで描かれる、技術に、自然に、超越され置いていかれる人間存在の在り方。卑小であること、無力であることを突きつけられ、そこで何を感じるか、己の感性を試されるような緊張感。

かつて私の愛した神林長平がそこにいた。
しかし、今この場所にかつての私はいない。

20代に入ってから、「父の樹」に出てくる、ひとつずつひとつずつ内臓を失っていった主人公の父のように、神林長平の魂の透徹さを捨てていった私は、かつての私とは似ても似つかぬものに成り下がってしまった。今の私には『犬身』の如何ともし難い人の間の情のもつれに身の寄せ処を感じてしまい、ぬるぬるとした、粘っこい情と身体の繋がりに縛られることを好む癖がついてしまった。


今日もまた、抜き差しのならない話を済ませた後で、別の一人へと甘えた声を鳴らし、そうしたことを悔やむでもなく楽しむでもなく。
犬の身に落とされるのが正しいのかもしれない。

ポール・オースター『オラクル・ナイト』(新潮文庫)

数年ぶりに初売りに出たら、目に留まったキャメルのハーフコートを買ってしまった。形がいいな、と簡単に合わせてすぐ会計してその場から着せてもらったのだけれど、ポケットの口を塞ぐしつけ糸を抜いてもらうのを忘れてしまい、帰り道、二時間近く寒風を指の先に吹きかけ続けられて大層参った。

 

こちらも初売り、というわけではないのだけど、下宿に戻る新幹線の中で読んだのがポール・オースター『オラクル・ナイト』。奥付を見ると、平成二十八年一月一日発行。

長編というには少し食い足りない長さではあるが、この作品随分と腹に溜まる。物語の中で語られる物語、が異様に多いのだ。読んでいる内に、作中作だけでなく、エピソード、意見、経験、回想、類推、予言、一人の人生も、また全て物語なのだと気付いてくる。物語たちは照応し、呼応し、分裂し、結合し、増殖し、やがて死にもする。そう、物語の死ぬ瞬間を我々は目にする。人生の終わりが実際そういう側面も有するが、物語の死とは、ピリオドが打たれないこと、完結しないこと、つまり、出口のないこと、だ。

この物語の中には出口を失った物語が、とりあえずは、明確に、ひとつ現れる。

死んだ物語を前に、我々本読みは思った以上に打ちのめさされる。

 

この物語は、物語のあらゆる側面について、模索しているように見える。確かに物語は整然とした対を形成し(重症から復帰したおぼつかない主人公と、まっさらの青いノート、この作品には呼応だらけだ)、物語の死を見届けた中盤以降、語られる物語は、四重奏の様に並行しながら調和する。パズル的な美しさは高い。しかし、そちらの調和とは別にこの物語は、物語の存在、力そのものに言及しようとする指向性を示してはいないか。

『言葉は現実なんだ。人間に属するものすべてが現実であって、私たちは時に物事が起きる前からそれがわかっていたりする。必ずしもその自覚はなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間人のなかにあるんだ。書くというのも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こさせることなのかもしれない』(『オラクル・ナイト』)

オースターはかつて『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』でアメリカ中のエピソードを集めていたが、そこから、物語のるつぼから、何をすくい上げたのだろう。すくい上げたのは、問い、ではなかったのだろうか。物語の持つ力に、その根源に対しての、問い。この作品は、物語を積み上げてその力を示すと同時に、その力の出所を我々に問うている。死んだ物語にすら力の宿ることを見せられ、何を思えばいいのか。

応えではなく、問いの物語としての『オラクル・ナイト』。

 

『物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ』

そういって締めくくられる、鼠取りにかかった悲しいまだ若い鼠の話があったが(鼠取りのエピソードもまた、その物語全体と呼応していた)、確かに、入口と出口はあるべきなのだ、この現実がそうでないことで悲しいことが沢山起きていると去年は随分と学んだのだから。

そのくせ入口のないコートと、出口のない物語を抱えることになった2015年の出口/2016年の入口とは何なのか。立ち尽くさざるを得ない。

 一歩でも進めれば、景色は違うだろうか。

トルーマン・カポーティ『夜の樹』(新潮文庫)

逃げ場などないのだということをなんどもなんども実感する。

8月、とても慕わせて頂いた方が自ら命を断たれた。同じ月にネットの知り合いも同じことをしていたと、翌月になって知った。今までに死ぬことについて、考えていたこと、費やしてきた時間、すべて無駄になった。8月のある日に現実が定義を書き換え、それまでの執筆者たちは永遠に弾劾されることになった。現実における死の感触、不可逆性、無機質さ、非連続性、あんなものはなにものより暴力だ、完全にあてられてしまった。思考の枝葉が伸びる際、私の頭の中のその領域、8/4のエピソード群に触れる瞬間、枝葉はその成長を止めてしまう。あるいは無為回路に入り込んだ電流のように、抵抗に削られつつその力を失っていく。あたまのかいてんがにぶくなったとかんじるひがふえた。

もうそこから、みつきもの間、動けないでいる。

頭が働かなくても、体は勝手に動くものだから、わけのわからないことを沢山したし、している。抜き差しならない方へ進んでいく。ひとりかふたりの友人が声をかけてくれるが、残りは、にやにやしている。

ここまで書いてみて、これだけがこの150日ほどの私信なのかと考えたら、ほっとした。たいしたことでないように、見えた。


本の話を少しだけ、
『夜の樹』は、カポーティに関するつまらないイメージを吹き飛ばしてくれた。カポーティはお洒落な都会派の作家などではなく、集合、集団で逆説的に孤立していくタイプの、飢えを抱いた因果な人間(人間の因果?)を描写してしまう作家(ティファニー、で気づけなかったのは本当にボンクラだなあ……)。自分の全ては所有されたくないが、他者を全て所有したいという欲望を余さず描いてしまったのは、カポーティにとってはマゾヒスティックな快楽だったのかもしれない。
所収作、「無頭の鷹」を読みながら確かに思う。そのような充たされない欲望を前にして、人がどうして狂わずにいられよう?

『やがて彼は緑色のレインコートを着た女の子を見つけ出した。五十七丁目と三番街の角に立っている。そこに立って煙草を吸っている。何か歌を口ずさんでいる。レインコートは透明で、黒っぽいスラックスをはいている。素足でかかとの低いサンダルをはき、男ものの白いシャツを着ている。髪は淡い黄褐色で、男の子のように短く切っている。』
『やがて、彼女がゆっくりとした足どりで、街灯の下に近づいてきて彼の横に立つ。空は、雷で割れた鏡のように見える。雨がふたりのあいだに、粉々に砕けたガラスのカーテンのように落ちて来たからだ。』(「無頭の鷹」)

ではまたしばらく。

村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)

ニューヨークに行くことになった。

高飛びのようなものである。
女の子やら大学の先輩やら、そういったわずらわしい関係に、蓋をする感覚である。
これは持って来られた話で、急に決まって、急に発つので、実感もない。どこに行こうという考えもない。ただ、逃避としての、安楽な選択としてアメリカ行きがあったのだ。14時間も飛行機に乗って、その目的がただ逃げたいだけというのは、本当に始末の悪い話だと思う。

『彼女はアクロポリスの柱を触るためにギリシャに行き、死海の水に足をつけるためにイスラエルに行く。そして彼女はそれをやめることができなくなってしまうのだ。エジプト行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り……、そんなことをしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でも様々な表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくは一番まっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。理由のつけられない好奇心、現実的感触への欲求。』(「メキシコ大旅行」)
一編目のメキシコ大旅行でこう立派にカマしてきた割には、この旅行記集での村上春樹村上春樹然としていない。実際、この直後の内容は、メキシコという国はそのようなまっとうな理由ではないもっと根本的な理由を必要としている国だ、と述べているくらいである。この本は、いわゆるハルキ節がとても弱い。
当たり前なのかもしれない。無人島で虫に怯えたり、メキシコでカーステレオに苛立ったり、中国で絶望的に汚い便所で用を足せなかったり、アメリカの代わり映えしないモーテル群にうんざりしている村上春樹は、いわばホームでプレイできていないのだ。冷えたビールも、シンプルなサンドイッチも、シックなジャズも、コケティッシュな不思議ちゃんも無い「この世の果て」みたいな所で(ひたすらうどんを食べさせられるなら、讃岐だって確かにそうだ。異界だ。)気の利いたことが言うのはとても難しい(とても、に傍点を振りたい)。
だからこそ、この本は新鮮である。
割り込みおばさんの足を真剣に蹴ったり、同行のカメラマンに石を投げつけられるのを他人の振りをしてやり過ごそうとする村上春樹が見られるのは中々ないし、何より90〜ゼロ年代村上春樹を印象づけたこの世界のシステムを分解し、再構築させようとする小説家としての視点が暴露しているのだ(言葉の響きを知らない人々に囲まれたがために餓死しかかったインディオの青年や、草原の片隅に追い詰められ一発の銃弾に仕留められる雌オオカミについて語るとき)。

終わる間際にはこんな一節があった。
『でも僕はうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するのはただの僕ら自身でしかないんじゃという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけではないのだろうかと』(「ノモンハンの鉄の墓場」)
メトロポリタン美術館に、Momaに、グッゲンハイムギャラリーに、セントラルパークに、私の断片が転がっているというのだろうか(とりあえずそこしか決めていないのだ)。
もしそうなら、そこでは、私が私であることを思い出す、私を“立ち上げる”、切実な過程が旅と呼ばれるのだろう。
とりあえず今の私が、逃げながらばらばらになった自分を継ぎ足していかなければならないのは事実だ。
『何もしないでいると、頭の中は様々な想念でいっぱいになってしまう。いろいろな言葉や、ちょっとしたフレーズや、活字で読んだ文章や、……そういったものが次から次へと登場してくる。それがわずらわしかった。また、それを紙に書きつけてみたりするのも、僕はたまらなくいやだった。ノートに清書された詩を目の前につきつけられたりするようなことが度々あったが、ぼくはどうしても好きになれなかった。ひとことでいってしまえば、そういうものはあまりにも弱々しかった。そう思えた。すぐにひねりつぶされそうに見えた。安易だと思った。』(山際淳司『彼らの夏、ぼくらの声』)
本を読むもの、ギターを弾くのも、映画を観ることも、いったん置いておく。
これまでにないやり方を、強度のあるやり方を。
ほんとうに私はヤワだったのだ。ようやく気づいた。

 

佐々木丸美の『雪の断章』を読んでいる。ほとんど透徹と言っていい美しい文体。これがこの語り部に与えられたものではなく(それだけでも十分素晴らしいのだが)、この著者本人のものなら、もっとこの透徹に身を切られることができるのかという喜びがある。