羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

カトリーヌ・アルレー『わらの女』(創元推理文庫)

嘘を“吐いても”いいが、嘘を“吐かされては”ならない。
今年最後の一冊は、そんな実感をじわりと身に染み込ませてくれた。

 

『彼女はすべての策謀が始められたこの日を、あとになると決して忘れることができなくなる。しかし、今はそれを知る由もなかった。その日も、ただ、一週間のうちの単なる一日であり、他の日より悲しくも、嬉しくもなかった。』(『わらの女』)
カトリーヌ・アルレーわらの女』。今年の夏、神保町で初版本を見つけ、下宿に積んでおいたのをなんの気なしに帰省のお供にした。64年の訳だけあって、いかにも古典という文体に半ば辟易しながらぼーっと読んでいたら、いつの間にか、してやられた。是非ご一読あれ、という系の一冊。

ストーリーライン、ミステリとしての部分もさることながら、地味にツボなのが、主人公が、ハンブルク大空襲によって家族も青春も奪われた、という設定。
『爆撃の時代、女としての彼女の生活に、決定的な刻印を押してしまった時代、うちくずされた街の混沌の中の鼠のような毎日、恐怖と、飢えと、寒さと孤独の習慣。』
『二人は、自分たちの持っている、いちばんいいもの、若さと、官能と優しさを交換し合った。生きているもの、若く強いもの、それをすべて与え合った。せめて誰かがそれを楽しめるように、そして二人の死がまったく無意味にはならないことを願って。それは、一晩つづいた。ただの一晩だけだった。』(『わらの女』)
ここには、彼女をより高い所から“突き落とす”ための落差に留まらない悲壮さがある。彼女は全てを奪われ、その中心には無がある。無は有を要求し、そこに餓えが生じる。餓えは人を切迫させ、人はあらゆる行動を取る。例えば、嘘を吐く。

 

今年も切迫した私は、数え切れない嘘を吐いて過ごしてきたが、最近ようやく、嘘を吐いている状況と嘘を吐かされている状況を区別できるようになってきた。この人の前で、私は嘘ばかり吐いているな、という人を見分けられるようになった。
ほんとうに彼女たちは、嘘を吐かせるのが上手い。彼女は私の内面的な矛盾を丁寧に把握しているのだ。矛盾が露呈する度に、彼女は説明を求める。説明を試みたところで、勿論上手くはいかない、説明の糸口が見えたところで、嘘に依ってできる一時的な解決口だ。なのに、それは一端許諾される。なに、追求は一度に止まらないからだ。同じテーマについて何度も説明が要求され、土台があやふやな説明にやがてガタが生じる。それを以て、私は嘘吐きと糾弾される。確かに私は嘘を吐いた。しかし、それは私のためだけの嘘だったのだろうか。異議は受け付けられない。何故なら私は嘘吐きなのだから。そんな時に、「あなたは嘘吐きだし。わたしのことだって好きじゃないんでしょう」。すかさず、そんなことはない、と答えてしまう。また、嘘を吐いている。こんな風な問いかけをされて好きになれるわけがない。だが吐く意図がなかった嘘で嘘吐きという不名誉を与えられたくはない。

“私は、このひとに、信用してもらわなければならない” 信用を得るため、歓心を買おうと努めている私は、ほとんど彼女にかしずいていることに気付く。
嘘を吐いて生じる破滅より、嘘を吐かされて至る破滅のほうが、痛みを伴う。

『両手の下の彼女のからだは、あたたかく、生き生きして、油ぎり、疲れのきざしを見せるまでには、まだ何十年もの歳月に堪えそうに見えた。それに、彼女の目もまだ見えた。そして、それがおそらくいちばん苦しかった。もう決して、木も、海も、長い海岸線の黄金色の砂も、見られない……こんなときに泣いたのを彼女は後悔した。』(『わらの女』)

 

実際、嘘を吐かなければならないという状況を作るのに長けた人も、それを用いて他者をコントロールしようとする人も、意外と少なくはない。幸いにもそのような目に遭わずに来たという人たちには、史実のハンブルク空襲を題に取り、廃墟の街の住民が抱える喪失感を綿密に描いたノサックの『死神とのインタヴュー』からの一節をお贈りしたい。
『深淵はわたしたちのすぐ近くにあった。それどころか足下にあったのかもしれない。そしてわたしたちはなんらかの恩寵によって、その上方をただよっていたにすぎない』(「死神とのインタヴュー」)

 

願わくば来年も、あなた方に“なんらかの”恩寵があらんことを。