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羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』(河出文庫)

ワタシハミジメデアリタイ
私たちを捕らえて離すことのない、これはもう、欲望である。
勿論、無条件でそうなりたい訳ではない。私たちが私たちの世界において、私たちの許す範疇においてである。甘えではない自己憐憫でもない、繰り返そう、これは欲望である。

ワタシタチノオウコクデ
ワタシハミジメデアリタイ
収録の作品において、これは祝詞にすら見える。

筋のようなものは「二百回忌」にしか存在せず、この作品はあまりパッとしない印象。いかにも日本風の土俗的な枠にマジック・リアリズムを落とし込んでみましたという感じ。
面白くなってくるのは、筋らしき筋の全く存在しない「なにもしてない」である。ここで行われるのは日常を極限までミジメに演出する試みだ。そしてそこでは、酒を抱いて一日を過ごすのでもなく、借金取りにドアを蹴破られるのでもなく、養ってくれる女を殴るのでもない。アレルギー体質故に腫れて体液でぐじゅぐじゅになった手を放置し、観葉植物に妖精を幻視し、我儘な母親のご機嫌を取りに実家に帰る。前者が西村賢太的な陽のミジメなら、後者は徹底した陰のミジメである。そして、それは自分の意志で貫かれるミジメさでもある。私は、外界からの刺激を徹底してミジメさに変えるフィルターと化し、日常をミジメに染めていく。
さて、そこには何が残るのか?
『ポトスは憑かない、ポトスはおとなしいし、こちらの考えている事など気にもしない。だがポトスが憑かなくても私が憑かれるかもしれないのである。私がポトスの中に妖精をでっち上げそれを引き出して遊ぶ。そうして、乗っ取られているうち、生きる喜びや欲望の全部が、ひたすらただ見ることに昇華された、透明な喜びに満ちた妖精が出現する。』
(「なにもしてない」)
そこには救いがある。自らを落として行くことで、外界の事物は相対的に立ち上がってくる。私はそこにすがりたいと思うのだ。ポトスにおしゃべりな皮膚科医に紀子様に。

ミジメデアリタイというのは欲望だ。それは神を欲する欲望である。

ワタシノ、ワタシダケノカミサマヲ、ドウカ。

 

 

「タイムスリップ・コンビナート」にはすごくいたいけな挿話があったので、これはすごく良かった。
『三、四歳の私はそこの国産チョコレートが好きだったらしい。店の前にはエスキモーかどこかなのだと思うが、看板代わりに、木で作った厚みのある白熊の人形が置かれていた。それは大人の背丈よりずっと高かったように記憶している。
当時の私はあまりにもセコい子供だったらしい。祖母にそのチョコレートをねだる時に、素直にチョコレートを買ってちょうだい、と言えなかったのだという。チョコレートが欲しい時私はいつも、少し不機嫌な顔付きになり、祖母の背後から割烹着を引っ張り、「はしのそばのくまをみにゆきましょうよ」と対等な言い方で誘ったのだった。』
(「タイムスリップ・コンビナート」)」

声に出して言いたい。はしのそばのくまをみにゆきましょうよ。