羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

アンナ・カヴァン 『氷』(バジリコ)

2015/03/01

何ら持病を持たない私たちが痙攣を得るためには、そこに装置が無くてはならない。

痙攣的なギターソロを吐き出し続けたゆらゆら帝国時代の坂本慎太郎にとって、それはおそらくファズであり、全編に渡って痙攣的な想像力が支配するカヴァンの『氷』においては、少女という存在が装置であった。

最も古くから存在するギターエフェクターである ファズの本質は破綻にある(私は勝手にそう考えている)。まず、バリバリ、ブチブチ、ガリガリと形容されるその出音からして破綻している。サステインは無限に伸びるかと思えば思わぬところで裏返る。コードを弾いてもそこに和を感じることは無く一個の拳のように叩きつけられる音があるばかり。だからこそ、その耳馴染みの無い様徹底的に変換された音が支配するフレーズは、どうしてもスムーズなものにはなり得ず必然的に痙攣し、また、それが異物として聴覚を強引に通過して行く瞬間、生理的反射のひとつとして私たちは痙攣を催すのである。

『氷』において異物は少女である。彼女の存在は、主人公を変容させ、“長官”を変容させ、主人公の感覚を通して私たちの認知する世界を変容させ、凍てつかせていく。蛮族が要塞のある町を遅い、抗いとしての無意味な送信機の敷設が頓挫し、終末の世界を大型装甲車が疾駆する。少女の像も一見変容しているように見えるがそうではない、私たちの感覚器である主人公の感覚が変容しているのだ。彼女は変化することがない、なぜなら彼女は装置だからである。やってきた信号を、痙攣的な信号に変換する装置。

適切な痙攣を求めるためには、適切な痙攣の装置が必要なのだ。
適切な痙攣、成功すれば、恍惚的なめまいと、恍惚的なしびれが待っている。