羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫)

川崎の飲み屋街をはしごしたものの、終電にはなんとか飛び乗れた。最寄り駅に帰りつけた喜びにそこら中を闇雲に散歩してみる。湿気た夜の酸味を爆音でイヤホンから流れるゆらゆら帝国で中和しながら思う。 

 

クレジオなんて読まなくていいから、坂本慎太郎を聴けばいいのに。

 

先日読んだ『悪魔祓い』は、クレジオがメキシコシティーラテンアメリカ研究所に所属していた際に出会ったインディオ文化を題材に、その文化をかなり直感的に分析した作品だった。文明批判としては今や紋切り型(パパラギ然り、ピダハン然り)で、皮肉にも“未開の密林に対する文明人の興奮”という雰囲気は全編ぬぐえないながら、熱狂的な詩篇として読むと、酩酊感があり、幻視的であり、つまり良い詩の条件を揃えている。 

 

さらに、ビート感にもすさまじいものがある。以下は、ひき蛙たちの重なり合う鳴き声から、クレジオが幻視し、幻聴した世界についての詩篇

『夜の闇のなかで、ひき蛙の鳴き声が止まない。それはばらばらになったかと思うと合し、一つ一つの声を聞きわける術はない。それは低く、高く、弱く、強く立ちのぼる。声を発している喉も見えぬまま、それらは次々とつけ加えられる。その声は、闇をふくらませ、闇を完全に満たして他のすべての音を排除する。もはやそれらの声しかない。言語、木の葉のすれあう音、水滴、呼吸、昆虫のざわめき、もはやなにものも存在しない。要するに、なにるのも表現しないがゆえの全的な言語。ただ単なる呼びかけ、欲望、音に変貌した生命。ところせましと立ちならぶオルガンのパイプ。それぞれのパイプが、気息や楽節や心臟のリズムや気管支の運動と無関係に、ぎすぎすした音を発している。』

『恐怖をうち壊し、死をうち壊す執拗な鳴き声、呪術的な鳴き声。ひき蛙はいたるところにいる。彼らは、ただ鳴き声をあげるために、世界のなかに、夜のなかにひろがっている。彼らは、動かない。姿を現わさない。彼らは生き、死ぬことがない。百、三百、一万もの鳴き声は、交錯し、邪魔しあい、一体となる。ひき蛙は何匹いるのか。彼らは、倦まずふくらんだり、しぼんだりする彼らの喉によってしか存在しない。冷え切った酩酊。それは彼らの体や頭脳のなかにあるのではなく、彼らの声のなかにある。音によって世界を麻痺させてしまう酩酊だ。鳴き声は、呼吸音を真似ている。しかしそれは呼吸ではなくて、生命の分割だ。ひき蛙はいたるところにいる。すべてはひき蛙となった。空気、水、森、樹々の葉、月、雲、河、地を這う影、動物たちの目、そしてたぶんかなたでは、都市、靄の立ちこめた街路、自動車の車体、女たちの顔、戦火の響き。それらは、沼のなかに坐りこみ、向かいあいながらも、互いの姿は見ずに鳴き続けるひき蛙なのだ。』

 

あるいは、“歌ならぬ歌”についての神秘的な詩篇

『男は男どうし、女は女どうしの二人ずつの組になって地面に腰をおろし、インディオたちは、全力をあげて、しかも《小さな声で》歌う。彼らは抱きあい相手の耳もとにむかって歎き悲しむごとく歌う。一方が息切れして中断する。すると、今度はもう片方が自分の口を仲間の耳に近づけて歌う。こんな具合に、一晩中、倦むことなしに奇妙な個人的オペラがくり広げられるのだ。だれも聴いていない。だれも歌っていない。音楽は、だれのためになされるものでもなく、なにものも与えない 音楽には聴衆もいないし、俳優もいない。酔っぱらった女たちが、目を閉じ、交互に相手のほうに身を寄せては歌う。高い小さな声は、ほとんど沈黙を破らないくらいである。それは告白であり、打ち明け話であり、秘密である。しかし、気晴らしや説得のためのものではない。ささやかれた声は、注入されるための一つの耳を、ただ一つの耳だけを探し求めている。声にとって、共同体を支配することや、大勢の人間たちを魅了することなど必要ない。やむを得なければ、耳などぜんぜん必要ですらないのだ。』

『実際、歌には、どんな愛も憎しみも、どんな喜びも悲しみもこめられていない。それは抽象的なものだ。この女の内部で一つずつつくられ、だれもそれに出会うことがない詩。それは、紙の上に描き出されるにつれ燃やされてしまうデッサン、つくられる過程で壊されてしまう作品のようだ。歌はそれ自身のため、もっぱらそれ自身のためにある。彼女の歌ーーというのも、ここでは、一人一人の女や男がそれぞれ《自分の》歌をもっているからなのだがーーの言葉でもって、女は自分の顔の線を一本一本描き、それからそれを消す。女が沈黙するとき、なにも、絶対になにも残らない。』

 

対照的に、詩篇でない部分でクレジオが繰り返し論考しているのは、自己を反映しない芸術についてである。インディオの芸術(呪術としての演劇、あるいは歌、紋様や絵画)は自己をその作品世界に投影せず、その代わり宇宙や自然の中に人間を位置づける機能を持つと分析している。

 『インディオたちは人生を表現しない。彼らには事件を分析する必要がない。彼らは、神秘の表徴を生き、記された跡をたどり、呪術が与える指示にしたがって、語り、食べ、愛しあい、結婚する。要するに芸術、それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にしての個人の惨めな問いかけなどではない。芸術とは、人間の集団がいだいた宇宙についての印象であり、細胞の一つ一つと全体とのつながりであるがゆえに、それは芸術なのだ。』

『言葉を殺すための音楽、言葉よりも早く進むための音楽。理解するための音楽ではなく、苦しくて、極度に意識的な熱狂。するとたちまちのうちに、宇宙の模様が見られ、聞かれ、感ぜられ、知られる。一閃のきらめきのうちに社会のかなたに達する音楽。』

 

しかし、このようにクレジオが驚嘆し、発見したインディオの芸術を、90年代からゼロ年代にかけてのゆらゆら帝国はいとも自然に体現した。

そのひとつ目の方法は、その歌詞世界において明示されている。

「昆虫ロック」では“透明な体を手に入れろ”、「ソフトに死んでいる」では“いいたいこともない/つたえたいこともない”、「あえて抵抗しない」では“さしずめ俺は/一軒の空家/ちょっとしたくぼみ”、「順番にはさからえない」では“全部が俺の前を通り過ぎていく”、「通りすぎただけの夏」“そろそろ/僕は消えるよ/さりげなく”、「ロボットでした」では“踊りだす/こころここにはない”。空っぽさ、意志の不在は、ゆらゆら帝国の歌詞中に散在しているテーマだ。さらにその視点は三人称に固定されている歌詞が多く、自己の不在と俯瞰の視点が相俟ってゆらゆら帝国の歌詞世界に透明感を与えている。透明感、というよりは、その歌詞ひとつひとつに含有されるコンテクストの希薄さをそう捉えているのかもしれない。“きみ ”や“おれ”が出てくる際にすら、その二人の関係性には一切因縁めいたもいたもの、意味性を感じさせない。そこで表現されているのは、あらゆるものが世界のあるべき場所にあることを、“私/僕/おれ”を通して世界自身が確認しているに過ぎないという実感だ。実際、ゆらゆら帝国はその活動の最後に、自身を「空洞です。」と表現するに至った。

透明になった自分の体を、通路のように何かが通り抜けていく、世界が交通するという幻視が、そこにはあった。

以下は『悪魔祓い』の一節。

『歌うとは、音楽を奏することではない。それは理解不能なある言語の助けを借りて、目に見えない世界と連絡することである。声と声が、お互いの声を聞く必要さえもなしにこのようにして結びついてしまう不思議な力。夢想の世界、ひそかな欲望、恐怖は、酩酊と死の世界。その世界が、現実とほとんど分かちがたいほどごく間近に、そこにある。その世界に達し、それを見るためには、人間の創造にかかわるこのわずかな変化で充分なのだ。律法がつくられ、律法が意図して恍惚への道を閉ざしてしまっているときには、このような違反、このような暴力を考えださなければならない。』

2つ目の方法は、坂本慎太郎の声ではなく、ゆらゆら帝国の持つもう一つの声によって為される。ファズによるノイズ・ギターによって。ギターエフェクターであるファズは、原始的な増幅機、発振器であり、ゆらゆら帝国の曲中のそこかしこで絶叫する。

『悪魔祓い』からの引用である以下の文章を読んでから「貫通」を聴いてみる、たちどころにこの文章が“実感”されることだろう。言葉を尽くす必要はない。手のひらに乗る、小さな金属の箱、ファズ。その電子回路から遠い南米インディオ達の声は発された。

『かん高い歌声は、その速度ゆえに沈黙と合体する。言葉のすべての意味を汲みつくしたとき、すべての文章とすべての問いを消耗しつくしてしまったとき、言語の果てるところ、言葉の終わるところで、言語は、集約され、凝縮されて、一種の細身の投槍のようなものに変る。イグアナの体をつらぬき通す、すべすべした銛のような、はね一つあげずに水中に射込まれたときの矢のような、インディオの歌。声の果てにある声、増殖する声、プリズムからほとばしり出て、出会うものすべてを焼きつくす緊密な細い光線。』

 

3分間の曲で実感できることを、ノーベル文学賞作家だからといって、長々と時間をかけて読んでやることはない。そんなことを考えながら、散歩を終えた。