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羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

ポール・オースター『オラクル・ナイト』(新潮文庫)

数年ぶりに初売りに出たら、目に留まったキャメルのハーフコートを買ってしまった。形がいいな、と簡単に合わせてすぐ会計してその場から着せてもらったのだけれど、ポケットの口を塞ぐしつけ糸を抜いてもらうのを忘れてしまい、帰り道、二時間近く寒風を指の先に吹きかけ続けられて大層参った。

 

こちらも初売り、というわけではないのだけど、下宿に戻る新幹線の中で読んだのがポール・オースター『オラクル・ナイト』。奥付を見ると、平成二十八年一月一日発行。

長編というには少し食い足りない長さではあるが、この作品随分と腹に溜まる。物語の中で語られる物語、が異様に多いのだ。読んでいる内に、作中作だけでなく、エピソード、意見、経験、回想、類推、予言、一人の人生も、また全て物語なのだと気付いてくる。物語たちは照応し、呼応し、分裂し、結合し、増殖し、やがて死にもする。そう、物語の死ぬ瞬間を我々は目にする。人生の終わりが実際そういう側面も有するが、物語の死とは、ピリオドが打たれないこと、完結しないこと、つまり、出口のないこと、だ。

この物語の中には出口を失った物語が、とりあえずは、明確に、ひとつ現れる。

死んだ物語を前に、我々本読みは思った以上に打ちのめさされる。

 

この物語は、物語のあらゆる側面について、模索しているように見える。確かに物語は整然とした対を形成し(重症から復帰したおぼつかない主人公と、まっさらの青いノート、この作品には呼応だらけだ)、物語の死を見届けた中盤以降、語られる物語は、四重奏の様に並行しながら調和する。パズル的な美しさは高い。しかし、そちらの調和とは別にこの物語は、物語の存在、力そのものに言及しようとする指向性を示してはいないか。

『言葉は現実なんだ。人間に属するものすべてが現実であって、私たちは時に物事が起きる前からそれがわかっていたりする。必ずしもその自覚はなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間人のなかにあるんだ。書くというのも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こさせることなのかもしれない』(『オラクル・ナイト』)

オースターはかつて『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』でアメリカ中のエピソードを集めていたが、そこから、物語のるつぼから、何をすくい上げたのだろう。すくい上げたのは、問い、ではなかったのだろうか。物語の持つ力に、その根源に対しての、問い。この作品は、物語を積み上げてその力を示すと同時に、その力の出所を我々に問うている。死んだ物語にすら力の宿ることを見せられ、何を思えばいいのか。

応えではなく、問いの物語としての『オラクル・ナイト』。

 

『物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ』

そういって締めくくられる、鼠取りにかかった悲しいまだ若い鼠の話があったが(鼠取りのエピソードもまた、その物語全体と呼応していた)、確かに、入口と出口はあるべきなのだ、この現実がそうでないことで悲しいことが沢山起きていると去年は随分と学んだのだから。

そのくせ入口のないコートと、出口のない物語を抱えることになった2015年の出口/2016年の入口とは何なのか。立ち尽くさざるを得ない。

 一歩でも進めれば、景色は違うだろうか。