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羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)

ニューヨークに行くことになった。

高飛びのようなものである。
女の子やら大学の先輩やら、そういったわずらわしい関係に、蓋をする感覚である。
これは持って来られた話で、急に決まって、急に発つので、実感もない。どこに行こうという考えもない。ただ、逃避としての、安楽な選択としてアメリカ行きがあったのだ。14時間も飛行機に乗って、その目的がただ逃げたいだけというのは、本当に始末の悪い話だと思う。

『彼女はアクロポリスの柱を触るためにギリシャに行き、死海の水に足をつけるためにイスラエルに行く。そして彼女はそれをやめることができなくなってしまうのだ。エジプト行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り……、そんなことをしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でも様々な表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくは一番まっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。理由のつけられない好奇心、現実的感触への欲求。』(「メキシコ大旅行」)
一編目のメキシコ大旅行でこう立派にカマしてきた割には、この旅行記集での村上春樹村上春樹然としていない。実際、この直後の内容は、メキシコという国はそのようなまっとうな理由ではないもっと根本的な理由を必要としている国だ、と述べているくらいである。この本は、いわゆるハルキ節がとても弱い。
当たり前なのかもしれない。無人島で虫に怯えたり、メキシコでカーステレオに苛立ったり、中国で絶望的に汚い便所で用を足せなかったり、アメリカの代わり映えしないモーテル群にうんざりしている村上春樹は、いわばホームでプレイできていないのだ。冷えたビールも、シンプルなサンドイッチも、シックなジャズも、コケティッシュな不思議ちゃんも無い「この世の果て」みたいな所で(ひたすらうどんを食べさせられるなら、讃岐だって確かにそうだ。異界だ。)気の利いたことが言うのはとても難しい(とても、に傍点を振りたい)。
だからこそ、この本は新鮮である。
割り込みおばさんの足を真剣に蹴ったり、同行のカメラマンに石を投げつけられるのを他人の振りをしてやり過ごそうとする村上春樹が見られるのは中々ないし、何より90〜ゼロ年代村上春樹を印象づけたこの世界のシステムを分解し、再構築させようとする小説家としての視点が暴露しているのだ(言葉の響きを知らない人々に囲まれたがために餓死しかかったインディオの青年や、草原の片隅に追い詰められ一発の銃弾に仕留められる雌オオカミについて語るとき)。

終わる間際にはこんな一節があった。
『でも僕はうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するのはただの僕ら自身でしかないんじゃという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけではないのだろうかと』(「ノモンハンの鉄の墓場」)
メトロポリタン美術館に、Momaに、グッゲンハイムギャラリーに、セントラルパークに、私の断片が転がっているというのだろうか(とりあえずそこしか決めていないのだ)。
もしそうなら、そこでは、私が私であることを思い出す、私を“立ち上げる”、切実な過程が旅と呼ばれるのだろう。
とりあえず今の私が、逃げながらばらばらになった自分を継ぎ足していかなければならないのは事実だ。
『何もしないでいると、頭の中は様々な想念でいっぱいになってしまう。いろいろな言葉や、ちょっとしたフレーズや、活字で読んだ文章や、……そういったものが次から次へと登場してくる。それがわずらわしかった。また、それを紙に書きつけてみたりするのも、僕はたまらなくいやだった。ノートに清書された詩を目の前につきつけられたりするようなことが度々あったが、ぼくはどうしても好きになれなかった。ひとことでいってしまえば、そういうものはあまりにも弱々しかった。そう思えた。すぐにひねりつぶされそうに見えた。安易だと思った。』(山際淳司『彼らの夏、ぼくらの声』)
本を読むもの、ギターを弾くのも、映画を観ることも、いったん置いておく。
これまでにないやり方を、強度のあるやり方を。
ほんとうに私はヤワだったのだ。ようやく気づいた。

 

佐々木丸美の『雪の断章』を読んでいる。ほとんど透徹と言っていい美しい文体。これがこの語り部に与えられたものではなく(それだけでも十分素晴らしいのだが)、この著者本人のものなら、もっとこの透徹に身を切られることができるのかという喜びがある。