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羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

カート・ヴォネガット『デッドアイ・ディック』(ハヤカワ文庫)

吉野朔実の『恋愛的瞬間』を読んでいたら、全裸で家事をする主婦の話が出てきて思いついたのだが、全裸で生活すると言うのは案外悪くないものなのかもしれない。
これからの季節には丁度良さそうだし、緊張感がありそうだ。日々の生活に緊張感を持たせる方法として、「部屋の隅に病気の犬を繋いでおく」というのを孝案していたのだが、これなら危険もなく手軽だ。
しかしながら、どうしてもっと早く始めなかったのだろうか、全裸生活を行うに当たって何か失うことはあるだろうか。

村上春樹の小説で、自分が10年の間に得たものをノートの右側に、失ったものを左側に書いていくという場面が有った気がする。
その場面の文脈がどうであるか忘れたが、正しく失うことは、それはひとつの戦略的行為である。
同じ様な特技を持つ人は沢山いたとしても、それを身に付けるために何を犠牲にしたか、切り捨てたかは個々人によるだろう。自覚的に切り捨てたものがあり、犠牲にしたものを並べて説明することができることは、ある種の水準を示していると思う。

物事前半の主人公であるデッドアイ・ディックの父親は、その一生の中で価値あるものを得られなかったばかりか、それでも得た少しのものの失い方にも失敗した。

『父は芸術家になれず、兵士にもなれなかったーーだがすくなくともそういう機会が訪れたとき、英雄的なほど気高く誠実にふるまえると思っていた。
これが父の頭の中にある父の一生の物語だった。
その機会は事実訪れた。父は英雄的なほど気高く誠実にふるまった。父は階段から突き落とされたーーまるで生ゴミかなにかのように。
そのとき、どこかにこんな文字が現れてしかるべきだったのだ。

なのにその文字は現れなかった。だが、物語としての父の人生はどのみち終わっていた。残された年月はエピローグーー行き当たりばったりの収集品、がらくたの詰まった箱やびんにすぎなかった』

物事は正しく失われなければならないし、正しく失われないなら失うべきではない。

幸い、同じ高さの建物も周りに無いし、訪ねてくる人もいないので、全裸であったところで何ら困りそうにはなかったのだが、ひとつ思いついてしまった。私の大好物は茄子をごま油でさっと炒めたつまみなのだが、あれは結構油が跳ねる。全裸ではかなり危ない。結局、茄子のごま油炒めを正しく(それなりの理由を以って)失わない限り、私が全裸になることは無いということになってしまった。

ともあれ、然るべき喪失に幸あれ、という話であった。