羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』(河出文庫)

夜中の百発の春雷とともに桜の季節は終わったが、桜の花を眺めている間、事物の本質が表在化するのか、表面の特質によって本質が決定されるのかぼんやりと考え続けていた。

桜の季節が始まった頃、こんな一節を見た。
『まず最初に言えるのは、表面に緑色の静脈のような線が無数に走っていることで、それはある部分では密に、網上になっていた、だが実際にはそれは取るに足らぬ、最も目立たぬ特徴だった、なぜなら月の一般的な特徴は、無数の穴と言おうか、かさぶた状のものから、またある部分ではねぶととか吸盤のような一面に散らばった腫瘍からにじみ出る、なんだか粘っこいような輝きのために目にはうつらなかったからである』(第一部 Qfwfqの話「柔らかい月」)
ここまで病的に不快に、病んだ臓腑のように描かれている月は初めてだった。
さらには、この月は地球に「溶け落ちて」くるのである。
病を抱えているから、この月はいやらしくも地球に零れ落ちてくるのか、
その醜いすがた故に、地球の美しい表面に嫉妬し、それを引き剥がしきらきらとした破片を攫っていくのか、

ある人は、桜の木の下には死体が埋まっているからあんなに美しいのだと言う、
「馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸つてゐる。何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ」(梶井基次郎桜の樹の下には」)

生まれた街には、大きなお城が有った。本丸へ上がっていく途中の両脇にびっしりと桜が植わっていて、終わりの頃には、道に桃色の絨毯を敷いたようになった。それが一番好きなものだった。一緒に記憶にあるのは、はしゃぎすぎて花びらに滑って転んだ私を起こす父親の掌で、まだ乱暴で力強かった頃の大きな掌だ。私の桜は、そういった追憶で出来た桜で、しかし、その桜はこの街、全く何もかも違うこの街にも咲いている。

何の話だったか、
桜の季節に考えていたことは、花が散るのに合わせてどこかへいってしまって、今は割に頭はすっきりしてしまっている。

確かに魔的な部分もあるに違いない。