羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

ジャック・ロンドン『野生の呼び声』(光文社古典新訳文庫)

ふと外に出ればどこまででも歩いていきたくなるような日々が終わった。今夜も大気は水を吸って鈍重になり、なにもかもが忌まわしい季節に向かっているのを感じる。
このひと月、軽やかな日々の夜を、頭をからっぽにして過ごしていた。これは未だかつてなかったことで、ほんとうに、すべて、感情に任せた。打算も無く人に言葉を吐き、ひきつけようとし、ひきつけたと思えば離すまいとした。しかしすり抜けて行くものを止めは出来なかった。かと思えば向こうから飛び込んでくるものがあり、それは勝手に私の中に寝床を作り、そのくせふらふらと家を空けたりすることをやめはしないだろう様子だ。
とにかく、ここまできた。ここはきたことがないところ。知らないところ。
ずっと息が詰まっている。
『そして、深々とふけていく寒い夜々、彼が鼻面を星空に向け、狼さながらに長々と遠吠えするとき、吠えているのは彼の先祖たちーーとうに死んで、塵に還った先祖たちーーが、星空に鼻面を向け、幾世紀も、幾世紀もの時を超えて、彼のもとまでその声を響かせているのだった。そのとき、彼の声の響きは彼らの声の響きとなり、それは彼らの悲哀を歌い、夜の静けさと、寒さと、そして暗さとが、彼にとってなにを意味するかを伝える歌となるのだ。』
私の中に、膨大な感情を認めたのだ。自らの内から流れ出すものがあり、どんどんと掘り下げて行けば“たまり”があるのを見つけた。そこに手を突っ込んだ瞬間に、理解せざるを得なかった。今まで分かろうともしなかった、あらゆる時代の人の中に流れていた感情と、その発露を。求めるということの歓びと哀切が、詩になり、歌になる意味を。
『北極光が頭上で冷たく燃え、星々が凍てつく空に踊り、そして大地は雪のとばりの下で、かじかみ、凍える、そんな中で歌われるエスキモー犬たちのこの歌は、あるいは果敢な生への挑戦であったかもしれない。しかしそれが短調で、長く尾をひく哀痛な訴えとして、生存の苦しみを表現したものとして、聞くものに訴えかけてくる。これは古い歌だった。犬という種族そのものと同じだけ古い歌ーー歌というものがどれも悲しいものだった時代、若かりし世界に響きわたった最初の歌のひとつだ。そしてその歌に、さらにその後の数知れぬ世代の嘆きが加わって、この苦悩の訴えとなり、それがバックを異様に感動させることとなった。彼がその歌に合わせてうめき、すすり泣くとき、それは野生の父祖たちの苦しみとおなじ、太古からの生の苦しみを帯びていたし、彼の訴える寒さや暗闇への恐怖と神秘は、父祖たちにもやはり恐怖であり、神秘だったものだ。』

主人公バックが調教師の棍棒に打たれ、傷を負ったことが野生を取り戻す一段目となった様に、傷つくことがなければ、全ては上手く行っていれば知り得ることのない事ではあった。

ポケットの中の硬貨をもて遊んでいるつもりだったのだ。かりかり、という音を楽しんでいた。しかし気付くことになる、それがガラスの欠片であることに。指先には細くて治り難い傷がびっしりついている。ひとつひとつをなぞり、その深さと曲がり具合や裂け具合、どんな血が流れたかを見る、どんな欠片が、出来事が、それを作ったかを復元しようとする。この文章はその一環として書かれている、のだろうか。どんな方法をとるにせよ、バージェスのアノマロカリスの様に復元は容易ではなく、沢山の誤謬と勘違いを抱えてやっていくのだろう、今暫くの間は。
同じ様に、意外な復元像が時にキュートということはあるのだろうか。

もう夜が明け始めた。私のための時間が早めに切り上げられてしまう様なこの季節は嫌いだ。とにかく、世界が忌まわしい夏に向かって急速に移動している。


現代詩が再び面白くなる時期がきた、きっかけは井坂洋子。意識についてもまた知りたいことが出てきて、ミンスキーやら栗本慎一郎やらを買い込んできた。これがはたちそこそこの人間のすることかつまらないなとも思う。

レイ・ブラッドベリ『火星年代記(新装版)』(ハヤカワ文庫)

つい最近、別れ話を切り出した夜に吹いた口笛は事の他大きく響いた。
昼下がり雨の止んだ一瞬に目の前を横切った黒い蝶は何か暴力性を帯びていた。
状況はその時々について異なる性質の時間を有しているのは勿論、その時間を通じて感覚を揺らがせる。
『今夜の大気には、時間の匂いがただよっていた。トマスは微笑して、空想をかけめぐらせた。ひとつの考え。時間の匂いとは、どんなものだろう。埃や、時計や、人間に似た匂いか。時間の音とはどんな音か。暗い洞窟を流れる水の音か、泣き叫ぶ声か、うつろな箱の蓋に落ちる土くれの音か、雨の音か。そして、さらに考えれば、時間とはどんなかたちをしているのだろう。時間とは暗い部屋に音もなく降りこむ雪のようなものか、昔の映画館で見せた無声映画のようなものか、新年の風船のように虚無へ落ちて行く一千億の顔か。』(「夜の邂逅」)

例えば、宇宙の時間の基本的性質は永遠である。その中では、どんな種類の時間も極小の幅しか持てない。私たちは語られる物語の中に一瞬の瞬きを、相対的に見出す。
『夜ともなれば、風は死んだ海底を吹きわたり、六角形の墓石のあいだを吹きぬけ、四つの古い十字架と、一つの新しい十字架の上を吹きすぎる。小さな石の小屋には明かりがともり、その小屋の中には、吠える風と、舞い狂う砂と、冷たく燃える空の星にとりかこまれて、四人の人影が見える。一人の女と、二人の娘と、一人の息子が理由もなく、暖炉の火をかきたて、話し合い、笑いさざめく。
来る年も、来る年も、毎晩のように、なんの理由もなく、女は戸外に出て、小手をかざして空を眺め、緑色に燃える地球を、なぜ見つめるのかも分からずに見つめ、それから小屋の中に戻って、暖炉に薪を投げこみ、風は吹きつのり、死んだ海はいつまでも死んだままに横たわる。』(「長の年月」)
長い時間、長い長い年月について思いを馳せていると、どうしても胸が苦しくなってくる。この苦しみはどこから来たのか、私たちの想いが一瞬でも在ることの苦しみか、一瞬にしか足り得ないことの苦しみか。双面の化物のように問いは何度も裏返る。永遠の命、想いの永遠化への渇望。しかし如何なる外部化された記録も強度が足りない。「百万年ピクニック」では、想いを継ぐのはやはり人間、連続的なGeneと物語の器であるとなったが如何に。

『仲間には理解してもらえない歌を歌い続ける「世界一孤独なクジラ」の発見を目指すプロジェクトの構想が持ち上がり、資金調達サイトで出資者を募っている。このクジラの呼び名は「52」。52ヘルツの周波数で歌っていることに起因する。もう何年もの間、この周波数を出し続けているのに、仲間からの応答はない。仲間のクジラは違う周波数を使っているため、たとえ「52」の歌が聞こえていたとしても、自分たちの歌とはあまりに違っていて理解できず、応答しないという。それでも「52」は歌い続ける。そこから「世界一孤独なクジラ」のニックネームが付いた。(中略)同サイトの説明によると、「このクジラの姿を見た者はまだ誰もいない。それでも存在することが分かっているのは聞こえるから」。(CNN)』

この話を見かけてから、「52」にとっての人間のような存在が、人間にとってもいてくれればいいな、と思う。さらにその種族は、全く異なる時間と空間のレンジを有しているのに、それでも私たちの想いを記録し、解釈し、自らのうちに混ぜ合わせることも厭わないのだ。
何と呼ばれるのだろう、彼らは。
火星人か、あるいは単に、神。

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』(河出文庫)

ワタシハミジメデアリタイ
私たちを捕らえて離すことのない、これはもう、欲望である。
勿論、無条件でそうなりたい訳ではない。私たちが私たちの世界において、私たちの許す範疇においてである。甘えではない自己憐憫でもない、繰り返そう、これは欲望である。

ワタシタチノオウコクデ
ワタシハミジメデアリタイ
収録の作品において、これは祝詞にすら見える。

筋のようなものは「二百回忌」にしか存在せず、この作品はあまりパッとしない印象。いかにも日本風の土俗的な枠にマジック・リアリズムを落とし込んでみましたという感じ。
面白くなってくるのは、筋らしき筋の全く存在しない「なにもしてない」である。ここで行われるのは日常を極限までミジメに演出する試みだ。そしてそこでは、酒を抱いて一日を過ごすのでもなく、借金取りにドアを蹴破られるのでもなく、養ってくれる女を殴るのでもない。アレルギー体質故に腫れて体液でぐじゅぐじゅになった手を放置し、観葉植物に妖精を幻視し、我儘な母親のご機嫌を取りに実家に帰る。前者が西村賢太的な陽のミジメなら、後者は徹底した陰のミジメである。そして、それは自分の意志で貫かれるミジメさでもある。私は、外界からの刺激を徹底してミジメさに変えるフィルターと化し、日常をミジメに染めていく。
さて、そこには何が残るのか?
『ポトスは憑かない、ポトスはおとなしいし、こちらの考えている事など気にもしない。だがポトスが憑かなくても私が憑かれるかもしれないのである。私がポトスの中に妖精をでっち上げそれを引き出して遊ぶ。そうして、乗っ取られているうち、生きる喜びや欲望の全部が、ひたすらただ見ることに昇華された、透明な喜びに満ちた妖精が出現する。』
(「なにもしてない」)
そこには救いがある。自らを落として行くことで、外界の事物は相対的に立ち上がってくる。私はそこにすがりたいと思うのだ。ポトスにおしゃべりな皮膚科医に紀子様に。

ミジメデアリタイというのは欲望だ。それは神を欲する欲望である。

ワタシノ、ワタシダケノカミサマヲ、ドウカ。

 

 

「タイムスリップ・コンビナート」にはすごくいたいけな挿話があったので、これはすごく良かった。
『三、四歳の私はそこの国産チョコレートが好きだったらしい。店の前にはエスキモーかどこかなのだと思うが、看板代わりに、木で作った厚みのある白熊の人形が置かれていた。それは大人の背丈よりずっと高かったように記憶している。
当時の私はあまりにもセコい子供だったらしい。祖母にそのチョコレートをねだる時に、素直にチョコレートを買ってちょうだい、と言えなかったのだという。チョコレートが欲しい時私はいつも、少し不機嫌な顔付きになり、祖母の背後から割烹着を引っ張り、「はしのそばのくまをみにゆきましょうよ」と対等な言い方で誘ったのだった。』
(「タイムスリップ・コンビナート」)」

声に出して言いたい。はしのそばのくまをみにゆきましょうよ。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(ハヤカワ文庫)/『老いたる霊長類の星への賛歌』(サンリオSF文庫)

ティプトリーが去勢を好んだ理由を、私は知らない。
しかし、その作品群に度々現れる、屹立するシンボルとそれにあてがわれる剃刀の隠喩は男性/女性を様々な意味合いにおいて惹きつけ続けていると思う。

モチーフとしては、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」には顕著に現れすぎているが、「スロー・ミュージック」もまたある意味で去勢の物語だ。
そこには共通して、かつて栄華を誇った男性性が、完成を見た女性性に引導を渡されるという構図がある。
「どうして男がいなくちゃいけないの?」
そう、まさにその通り。
男は野蛮で、争いを好む。戦争の原因はいつも男どもだ(ヴォネガットも『青ひげ』でそう言った)。女を見れば犯し、子供を見れば殴る。
そう、まさにその通り。
虐げられる女性性、征服する男性性。「ラセンウジバエ解決法」「たおやかな狂える手に」。これはもはや戯画や構図ではなく、前世紀には世界中に存在した現実で、勿論今もまだ巷に溢れている。そこにSFの想像力が入り込むとすれば、克服することで完成した女性性と、敗北し醜く足掻く男性性が描かれるべきだろう。
そう、まさにその通り。
おお、時代に要請された作家としてのティプトリー

しかし、そこに私は惹きつけられる要素は薄い。
惹きつけられるのは、去勢そのものではなく、その去勢に際しての優雅な、美しい手つきだ。

『「おれの、愛しいーー」 人間的な悲嘆が、押し入ってくる超越と戦っていた。行くてでは女の姿が、きらめくヴェールのかなたにしだいに薄れながら、なおも地上的な欲望に追いすがろうとしていた。ジャッコは人間性が、この輝かしい地上で彼の愛したすべてが、現実から永遠に消えようとしているのを知った。失われるしかないのなら、なぜめざめたのか?』(「スロー・ミュージック」)

『「君たちは自分たちのことを何と呼んでるんだ? 〈女の国〉か?〈解放〉か?〈アマゾニア〉か?」
「あら、ただ人間と呼んでるわ」その目は彼を見てぼんやりときらめき、彼女はまた弾痕を調べる。「人間、人」彼女は肩をすくめる。「人類」』
(「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」)

ティプトリーが予想し得なかったことに、この時代に生きる若者の多くは去勢されている(男性性に限らないのではないだろうか?)、生まれながらに、後天的に、あるいはまた、時代の要請として。望むと望まざるとに関わらず。今私がティプトリーに感じているのは、込み入ったマゾヒスティックなプレイなのだろう。ティプトリーは屹立する虚像のペニスを与えてくれ、優雅な、美しい剃刀がひと息にそれを切断する。祖父や、父たちのようにペニスを持たない私だけが感じることのできる、痛みと喜び。これもまたタナトスの誘惑だろうか? そこで流されるのは、血や精液でなく、老いたるものに対しての涙なのだろうか?

意識しなかった私の中の何かが、傷ついたり愉しんだりするのを感じるとき、そこに植えられたペニスや剃刀を突然発見することがあって驚かされる。そういう話だ。

カート・ヴォネガット『デッドアイ・ディック』(ハヤカワ文庫)

吉野朔実の『恋愛的瞬間』を読んでいたら、全裸で家事をする主婦の話が出てきて思いついたのだが、全裸で生活すると言うのは案外悪くないものなのかもしれない。
これからの季節には丁度良さそうだし、緊張感がありそうだ。日々の生活に緊張感を持たせる方法として、「部屋の隅に病気の犬を繋いでおく」というのを孝案していたのだが、これなら危険もなく手軽だ。
しかしながら、どうしてもっと早く始めなかったのだろうか、全裸生活を行うに当たって何か失うことはあるだろうか。

村上春樹の小説で、自分が10年の間に得たものをノートの右側に、失ったものを左側に書いていくという場面が有った気がする。
その場面の文脈がどうであるか忘れたが、正しく失うことは、それはひとつの戦略的行為である。
同じ様な特技を持つ人は沢山いたとしても、それを身に付けるために何を犠牲にしたか、切り捨てたかは個々人によるだろう。自覚的に切り捨てたものがあり、犠牲にしたものを並べて説明することができることは、ある種の水準を示していると思う。

物事前半の主人公であるデッドアイ・ディックの父親は、その一生の中で価値あるものを得られなかったばかりか、それでも得た少しのものの失い方にも失敗した。

『父は芸術家になれず、兵士にもなれなかったーーだがすくなくともそういう機会が訪れたとき、英雄的なほど気高く誠実にふるまえると思っていた。
これが父の頭の中にある父の一生の物語だった。
その機会は事実訪れた。父は英雄的なほど気高く誠実にふるまった。父は階段から突き落とされたーーまるで生ゴミかなにかのように。
そのとき、どこかにこんな文字が現れてしかるべきだったのだ。

なのにその文字は現れなかった。だが、物語としての父の人生はどのみち終わっていた。残された年月はエピローグーー行き当たりばったりの収集品、がらくたの詰まった箱やびんにすぎなかった』

物事は正しく失われなければならないし、正しく失われないなら失うべきではない。

幸い、同じ高さの建物も周りに無いし、訪ねてくる人もいないので、全裸であったところで何ら困りそうにはなかったのだが、ひとつ思いついてしまった。私の大好物は茄子をごま油でさっと炒めたつまみなのだが、あれは結構油が跳ねる。全裸ではかなり危ない。結局、茄子のごま油炒めを正しく(それなりの理由を以って)失わない限り、私が全裸になることは無いということになってしまった。

ともあれ、然るべき喪失に幸あれ、という話であった。

イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』(河出文庫)

夜中の百発の春雷とともに桜の季節は終わったが、桜の花を眺めている間、事物の本質が表在化するのか、表面の特質によって本質が決定されるのかぼんやりと考え続けていた。

桜の季節が始まった頃、こんな一節を見た。
『まず最初に言えるのは、表面に緑色の静脈のような線が無数に走っていることで、それはある部分では密に、網上になっていた、だが実際にはそれは取るに足らぬ、最も目立たぬ特徴だった、なぜなら月の一般的な特徴は、無数の穴と言おうか、かさぶた状のものから、またある部分ではねぶととか吸盤のような一面に散らばった腫瘍からにじみ出る、なんだか粘っこいような輝きのために目にはうつらなかったからである』(第一部 Qfwfqの話「柔らかい月」)
ここまで病的に不快に、病んだ臓腑のように描かれている月は初めてだった。
さらには、この月は地球に「溶け落ちて」くるのである。
病を抱えているから、この月はいやらしくも地球に零れ落ちてくるのか、
その醜いすがた故に、地球の美しい表面に嫉妬し、それを引き剥がしきらきらとした破片を攫っていくのか、

ある人は、桜の木の下には死体が埋まっているからあんなに美しいのだと言う、
「馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸つてゐる。何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ」(梶井基次郎桜の樹の下には」)

生まれた街には、大きなお城が有った。本丸へ上がっていく途中の両脇にびっしりと桜が植わっていて、終わりの頃には、道に桃色の絨毯を敷いたようになった。それが一番好きなものだった。一緒に記憶にあるのは、はしゃぎすぎて花びらに滑って転んだ私を起こす父親の掌で、まだ乱暴で力強かった頃の大きな掌だ。私の桜は、そういった追憶で出来た桜で、しかし、その桜はこの街、全く何もかも違うこの街にも咲いている。

何の話だったか、
桜の季節に考えていたことは、花が散るのに合わせてどこかへいってしまって、今は割に頭はすっきりしてしまっている。

確かに魔的な部分もあるに違いない。

シオドア・スタージョン『海を失った男』(河出文庫)

2015/03/25

日々の中にも、タナトスの囁きに満ちた一瞬がある。

流しでグラスを洗っている。洗剤のぬめりを感じながら、グラスを落としてしまうことを考える。たとえステンレスの流しであっても、この高さなら割れるかどうかは五分五分だろう。
では、もっと高いところからなら……?
……靴下が泡で濡れる感覚で我に帰る。
あぶない、あぶない。

両親の口喧嘩は苛烈だった。二人とも、肉体的というよりはむしろ精神的なコンプレックスを的確にいたぶる内容の罵倒を好んだ。そのせいか、しばらく人と付き合っていると、無意識にその人の柔らかい部分を探り、そこから、彼が最も傷つくであろう罵倒を思いついてしまうことが少なくない。個々人に最も苦痛を与えるであろう毒の結晶が勝手に育っていく。このこと自体は私にとって苦痛であり、自らが嫌悪の対象でもあるし、勿論口に出すことも無いのだが。

自生した毒を使ってみたくなる一瞬はふと訪れる。きっかけもなしに。

タナトスの囁きは、あらゆる不可逆な破壊が内包する誘惑だ
「墓読み」では、男は自らの中の亡くした妻の存在に不可逆な破壊を加えようとする。青年は、墓を読むことで、死を遡行することで、生に至る方法を提示した。スタージョンタナトスタナトスである所以を解体したのだ。
また、作中にこんな一節がある。
『「当然、そうなりますね」と男は言った。また、あの奇妙な、相手が理解するのを待つような間。俺はその間を自分で埋めるのを拒否した。「もちろんあなただって同じように感じているでしょうが、人間は、光のようにただ消えてしまったり、砂漠の土のように削られて無に還ったりするには、存在も意味も大きすぎるんですよ」』
死の概念の内側に手を突っ込んで裏返すようなやり方だ。これが救いでなくてなんであろう。