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羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(ハヤカワ文庫)/『老いたる霊長類の星への賛歌』(サンリオSF文庫)

ティプトリーが去勢を好んだ理由を、私は知らない。
しかし、その作品群に度々現れる、屹立するシンボルとそれにあてがわれる剃刀の隠喩は男性/女性を様々な意味合いにおいて惹きつけ続けていると思う。

モチーフとしては、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」には顕著に現れすぎているが、「スロー・ミュージック」もまたある意味で去勢の物語だ。
そこには共通して、かつて栄華を誇った男性性が、完成を見た女性性に引導を渡されるという構図がある。
「どうして男がいなくちゃいけないの?」
そう、まさにその通り。
男は野蛮で、争いを好む。戦争の原因はいつも男どもだ(ヴォネガットも『青ひげ』でそう言った)。女を見れば犯し、子供を見れば殴る。
そう、まさにその通り。
虐げられる女性性、征服する男性性。「ラセンウジバエ解決法」「たおやかな狂える手に」。これはもはや戯画や構図ではなく、前世紀には世界中に存在した現実で、勿論今もまだ巷に溢れている。そこにSFの想像力が入り込むとすれば、克服することで完成した女性性と、敗北し醜く足掻く男性性が描かれるべきだろう。
そう、まさにその通り。
おお、時代に要請された作家としてのティプトリー

しかし、そこに私は惹きつけられる要素は薄い。
惹きつけられるのは、去勢そのものではなく、その去勢に際しての優雅な、美しい手つきだ。

『「おれの、愛しいーー」 人間的な悲嘆が、押し入ってくる超越と戦っていた。行くてでは女の姿が、きらめくヴェールのかなたにしだいに薄れながら、なおも地上的な欲望に追いすがろうとしていた。ジャッコは人間性が、この輝かしい地上で彼の愛したすべてが、現実から永遠に消えようとしているのを知った。失われるしかないのなら、なぜめざめたのか?』(「スロー・ミュージック」)

『「君たちは自分たちのことを何と呼んでるんだ? 〈女の国〉か?〈解放〉か?〈アマゾニア〉か?」
「あら、ただ人間と呼んでるわ」その目は彼を見てぼんやりときらめき、彼女はまた弾痕を調べる。「人間、人」彼女は肩をすくめる。「人類」』
(「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」)

ティプトリーが予想し得なかったことに、この時代に生きる若者の多くは去勢されている(男性性に限らないのではないだろうか?)、生まれながらに、後天的に、あるいはまた、時代の要請として。望むと望まざるとに関わらず。今私がティプトリーに感じているのは、込み入ったマゾヒスティックなプレイなのだろう。ティプトリーは屹立する虚像のペニスを与えてくれ、優雅な、美しい剃刀がひと息にそれを切断する。祖父や、父たちのようにペニスを持たない私だけが感じることのできる、痛みと喜び。これもまたタナトスの誘惑だろうか? そこで流されるのは、血や精液でなく、老いたるものに対しての涙なのだろうか?

意識しなかった私の中の何かが、傷ついたり愉しんだりするのを感じるとき、そこに植えられたペニスや剃刀を突然発見することがあって驚かされる。そういう話だ。

カート・ヴォネガット『デッドアイ・ディック』(ハヤカワ文庫)

吉野朔実の『恋愛的瞬間』を読んでいたら、全裸で家事をする主婦の話が出てきて思いついたのだが、全裸で生活すると言うのは案外悪くないものなのかもしれない。
これからの季節には丁度良さそうだし、緊張感がありそうだ。日々の生活に緊張感を持たせる方法として、「部屋の隅に病気の犬を繋いでおく」というのを孝案していたのだが、これなら危険もなく手軽だ。
しかしながら、どうしてもっと早く始めなかったのだろうか、全裸生活を行うに当たって何か失うことはあるだろうか。

村上春樹の小説で、自分が10年の間に得たものをノートの右側に、失ったものを左側に書いていくという場面が有った気がする。
その場面の文脈がどうであるか忘れたが、正しく失うことは、それはひとつの戦略的行為である。
同じ様な特技を持つ人は沢山いたとしても、それを身に付けるために何を犠牲にしたか、切り捨てたかは個々人によるだろう。自覚的に切り捨てたものがあり、犠牲にしたものを並べて説明することができることは、ある種の水準を示していると思う。

物事前半の主人公であるデッドアイ・ディックの父親は、その一生の中で価値あるものを得られなかったばかりか、それでも得た少しのものの失い方にも失敗した。

『父は芸術家になれず、兵士にもなれなかったーーだがすくなくともそういう機会が訪れたとき、英雄的なほど気高く誠実にふるまえると思っていた。
これが父の頭の中にある父の一生の物語だった。
その機会は事実訪れた。父は英雄的なほど気高く誠実にふるまった。父は階段から突き落とされたーーまるで生ゴミかなにかのように。
そのとき、どこかにこんな文字が現れてしかるべきだったのだ。

なのにその文字は現れなかった。だが、物語としての父の人生はどのみち終わっていた。残された年月はエピローグーー行き当たりばったりの収集品、がらくたの詰まった箱やびんにすぎなかった』

物事は正しく失われなければならないし、正しく失われないなら失うべきではない。

幸い、同じ高さの建物も周りに無いし、訪ねてくる人もいないので、全裸であったところで何ら困りそうにはなかったのだが、ひとつ思いついてしまった。私の大好物は茄子をごま油でさっと炒めたつまみなのだが、あれは結構油が跳ねる。全裸ではかなり危ない。結局、茄子のごま油炒めを正しく(それなりの理由を以って)失わない限り、私が全裸になることは無いということになってしまった。

ともあれ、然るべき喪失に幸あれ、という話であった。

イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』(河出文庫)

夜中の百発の春雷とともに桜の季節は終わったが、桜の花を眺めている間、事物の本質が表在化するのか、表面の特質によって本質が決定されるのかぼんやりと考え続けていた。

桜の季節が始まった頃、こんな一節を見た。
『まず最初に言えるのは、表面に緑色の静脈のような線が無数に走っていることで、それはある部分では密に、網上になっていた、だが実際にはそれは取るに足らぬ、最も目立たぬ特徴だった、なぜなら月の一般的な特徴は、無数の穴と言おうか、かさぶた状のものから、またある部分ではねぶととか吸盤のような一面に散らばった腫瘍からにじみ出る、なんだか粘っこいような輝きのために目にはうつらなかったからである』(第一部 Qfwfqの話「柔らかい月」)
ここまで病的に不快に、病んだ臓腑のように描かれている月は初めてだった。
さらには、この月は地球に「溶け落ちて」くるのである。
病を抱えているから、この月はいやらしくも地球に零れ落ちてくるのか、
その醜いすがた故に、地球の美しい表面に嫉妬し、それを引き剥がしきらきらとした破片を攫っていくのか、

ある人は、桜の木の下には死体が埋まっているからあんなに美しいのだと言う、
「馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸つてゐる。何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ」(梶井基次郎桜の樹の下には」)

生まれた街には、大きなお城が有った。本丸へ上がっていく途中の両脇にびっしりと桜が植わっていて、終わりの頃には、道に桃色の絨毯を敷いたようになった。それが一番好きなものだった。一緒に記憶にあるのは、はしゃぎすぎて花びらに滑って転んだ私を起こす父親の掌で、まだ乱暴で力強かった頃の大きな掌だ。私の桜は、そういった追憶で出来た桜で、しかし、その桜はこの街、全く何もかも違うこの街にも咲いている。

何の話だったか、
桜の季節に考えていたことは、花が散るのに合わせてどこかへいってしまって、今は割に頭はすっきりしてしまっている。

確かに魔的な部分もあるに違いない。

シオドア・スタージョン『海を失った男』(河出文庫)

2015/03/25

日々の中にも、タナトスの囁きに満ちた一瞬がある。

流しでグラスを洗っている。洗剤のぬめりを感じながら、グラスを落としてしまうことを考える。たとえステンレスの流しであっても、この高さなら割れるかどうかは五分五分だろう。
では、もっと高いところからなら……?
……靴下が泡で濡れる感覚で我に帰る。
あぶない、あぶない。

両親の口喧嘩は苛烈だった。二人とも、肉体的というよりはむしろ精神的なコンプレックスを的確にいたぶる内容の罵倒を好んだ。そのせいか、しばらく人と付き合っていると、無意識にその人の柔らかい部分を探り、そこから、彼が最も傷つくであろう罵倒を思いついてしまうことが少なくない。個々人に最も苦痛を与えるであろう毒の結晶が勝手に育っていく。このこと自体は私にとって苦痛であり、自らが嫌悪の対象でもあるし、勿論口に出すことも無いのだが。

自生した毒を使ってみたくなる一瞬はふと訪れる。きっかけもなしに。

タナトスの囁きは、あらゆる不可逆な破壊が内包する誘惑だ
「墓読み」では、男は自らの中の亡くした妻の存在に不可逆な破壊を加えようとする。青年は、墓を読むことで、死を遡行することで、生に至る方法を提示した。スタージョンタナトスタナトスである所以を解体したのだ。
また、作中にこんな一節がある。
『「当然、そうなりますね」と男は言った。また、あの奇妙な、相手が理解するのを待つような間。俺はその間を自分で埋めるのを拒否した。「もちろんあなただって同じように感じているでしょうが、人間は、光のようにただ消えてしまったり、砂漠の土のように削られて無に還ったりするには、存在も意味も大きすぎるんですよ」』
死の概念の内側に手を突っ込んで裏返すようなやり方だ。これが救いでなくてなんであろう。

山尾悠子『増補 夢の遠近法 初期作品選』(ちくま文庫)

2015/03/18

実家に帰ってきた。
しかし、自分の様な人間がこれから社会人になっていく友人たちには会わせる顔がないような、そんな気がして、昼から家でビール片手に本を読み、気づいたら夜中である。そんな日がもう三日も続いている。

山尾悠子の作品はこわいのだ。
このこわさは、東寺のこわさに似ている。小学生の時に訪れた京都の東寺、そこには五重塔があるのだが、見上げた瞬間に、やられた。荘厳過ぎるのだ。視界いっぱいに広がる建築、これは本当に木造なのか、木造に感じる質量ではない、質量の感覚はどこから? 互いにぴったり嵌まり込んだ軒や梁から。精緻に組み合わせる、ということを過剰にしていくとどこかに恐れが生じることを知った。
山尾悠子の作品は東寺のこわさ、精緻のこわさだ。
『遠近法』は自身でボルヘスの影響下にあるとしているが、この中篇にこわさが詰まっている。
空間、時間、神、人間、天体、理性、正気、極限、無限。
あらゆる物がその性質を剥奪され、「腸詰宇宙」の中に精緻に再配置される。再配置され、互いが互いのシンボルとなって相関付けあう(飛浩隆「象られた力」に登場する図形文字のように)。いよいよ「腸詰宇宙」は精妙になっていき、ついに「正しい」宇宙からの使者は自らの死でその理性を贖わざるを得なくなる。
初めて精巧なボトルシップを眺める時、そこには驚きがあるだろう。しかし、その中で動くミクロな人影を見た場合は? 嵐の前触れに吹く奇妙に穏やかな風に帆が揺れるのを見た場合は? 恐れはそこにある。

山尾悠子の作品は幻想文学という響きを大いに裏切る、幻想のことばを描かれているものの、そのモチーフは驚くほど硬質で、時に覗き込む者の目を凍らせる。冷えびえとした血液が前頭葉に流れ落ちていくのを感じる。

あまりに背筋が冷えるので、酔いが醒めた、
ので、こうして書くに至ったという話。

シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(河出文庫)

2015/03/13

スタージョンという作家の特徴をよく反映した作品が二作収められている。

ひとつは「雷と薔薇」。スタージョンの、引き算の幻想作家としての特徴が生きている作品。
幻想作家でも、マコーマックや京極夏彦のように絢爛で強固な幻想を打ち立てる(どうも幻想、に打ち立てる、という表現はおかしな様だが、どうしてもこう書かずにはいられない)、いわば足し算の幻想作家とは違い、スタージョンの作品では欠落によって生じる認識のずれの中に幻想が立ち現れてくる。他の収録作の「もうひとりのシーリア」ではぎりぎりまでリアリティが削がれているにもかかわらず、残ったリアリティの断面が際立ち、逆説的にこの作品を薄氷のようなリアリティの上に漂う幻想と言うべき、淡い味わいを与えている。「雷と薔薇」は、作品全体を欠落感が支配している。余りにも多くの物が(作中で述べられているよりも、多くの物が)失われたことを私たちは感じてしまう、その増幅された欠落感の中に顔面を半分失った歌姫と畸形の薔薇が強烈な印象を残していく。

「孤独の円盤」は、何よりもスタージョンらしい作品。普遍的な孤独や救いについての物語など、あまりに甘ったるいと思う人はいるかもしれないが、スーパー種族氏もどこかの浜辺で脚の悪い青年と出会えたらいいなとは思いませんか。似た様なスタージョン作品でも、もう少しケレン味があるのがよければ同文庫の『輝く断片』がオススメなのかもしれない。あるいは、もっと硬質で、リアリティのある、となってくるとカーヴァーの作品(「大聖堂」とか)を挙げることになりそうだ。


アニー・ディラードという作家の作品にすごい一節を見つけてしまったので(!)ぜひ読みたいのだが、あいにく全部絶版なのだなあ。

アンナ・カヴァン 『氷』(バジリコ)

2015/03/01

何ら持病を持たない私たちが痙攣を得るためには、そこに装置が無くてはならない。

痙攣的なギターソロを吐き出し続けたゆらゆら帝国時代の坂本慎太郎にとって、それはおそらくファズであり、全編に渡って痙攣的な想像力が支配するカヴァンの『氷』においては、少女という存在が装置であった。

最も古くから存在するギターエフェクターである ファズの本質は破綻にある(私は勝手にそう考えている)。まず、バリバリ、ブチブチ、ガリガリと形容されるその出音からして破綻している。サステインは無限に伸びるかと思えば思わぬところで裏返る。コードを弾いてもそこに和を感じることは無く一個の拳のように叩きつけられる音があるばかり。だからこそ、その耳馴染みの無い様徹底的に変換された音が支配するフレーズは、どうしてもスムーズなものにはなり得ず必然的に痙攣し、また、それが異物として聴覚を強引に通過して行く瞬間、生理的反射のひとつとして私たちは痙攣を催すのである。

『氷』において異物は少女である。彼女の存在は、主人公を変容させ、“長官”を変容させ、主人公の感覚を通して私たちの認知する世界を変容させ、凍てつかせていく。蛮族が要塞のある町を遅い、抗いとしての無意味な送信機の敷設が頓挫し、終末の世界を大型装甲車が疾駆する。少女の像も一見変容しているように見えるがそうではない、私たちの感覚器である主人公の感覚が変容しているのだ。彼女は変化することがない、なぜなら彼女は装置だからである。やってきた信号を、痙攣的な信号に変換する装置。

適切な痙攣を求めるためには、適切な痙攣の装置が必要なのだ。
適切な痙攣、成功すれば、恍惚的なめまいと、恍惚的なしびれが待っている。