羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

山尾悠子『増補 夢の遠近法 初期作品選』(ちくま文庫)

2015/03/18

実家に帰ってきた。
しかし、自分の様な人間がこれから社会人になっていく友人たちには会わせる顔がないような、そんな気がして、昼から家でビール片手に本を読み、気づいたら夜中である。そんな日がもう三日も続いている。

山尾悠子の作品はこわいのだ。
このこわさは、東寺のこわさに似ている。小学生の時に訪れた京都の東寺、そこには五重塔があるのだが、見上げた瞬間に、やられた。荘厳過ぎるのだ。視界いっぱいに広がる建築、これは本当に木造なのか、木造に感じる質量ではない、質量の感覚はどこから? 互いにぴったり嵌まり込んだ軒や梁から。精緻に組み合わせる、ということを過剰にしていくとどこかに恐れが生じることを知った。
山尾悠子の作品は東寺のこわさ、精緻のこわさだ。
『遠近法』は自身でボルヘスの影響下にあるとしているが、この中篇にこわさが詰まっている。
空間、時間、神、人間、天体、理性、正気、極限、無限。
あらゆる物がその性質を剥奪され、「腸詰宇宙」の中に精緻に再配置される。再配置され、互いが互いのシンボルとなって相関付けあう(飛浩隆「象られた力」に登場する図形文字のように)。いよいよ「腸詰宇宙」は精妙になっていき、ついに「正しい」宇宙からの使者は自らの死でその理性を贖わざるを得なくなる。
初めて精巧なボトルシップを眺める時、そこには驚きがあるだろう。しかし、その中で動くミクロな人影を見た場合は? 嵐の前触れに吹く奇妙に穏やかな風に帆が揺れるのを見た場合は? 恐れはそこにある。

山尾悠子の作品は幻想文学という響きを大いに裏切る、幻想のことばを描かれているものの、そのモチーフは驚くほど硬質で、時に覗き込む者の目を凍らせる。冷えびえとした血液が前頭葉に流れ落ちていくのを感じる。

あまりに背筋が冷えるので、酔いが醒めた、
ので、こうして書くに至ったという話。

シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(河出文庫)

2015/03/13

スタージョンという作家の特徴をよく反映した作品が二作収められている。

ひとつは「雷と薔薇」。スタージョンの、引き算の幻想作家としての特徴が生きている作品。
幻想作家でも、マコーマックや京極夏彦のように絢爛で強固な幻想を打ち立てる(どうも幻想、に打ち立てる、という表現はおかしな様だが、どうしてもこう書かずにはいられない)、いわば足し算の幻想作家とは違い、スタージョンの作品では欠落によって生じる認識のずれの中に幻想が立ち現れてくる。他の収録作の「もうひとりのシーリア」ではぎりぎりまでリアリティが削がれているにもかかわらず、残ったリアリティの断面が際立ち、逆説的にこの作品を薄氷のようなリアリティの上に漂う幻想と言うべき、淡い味わいを与えている。「雷と薔薇」は、作品全体を欠落感が支配している。余りにも多くの物が(作中で述べられているよりも、多くの物が)失われたことを私たちは感じてしまう、その増幅された欠落感の中に顔面を半分失った歌姫と畸形の薔薇が強烈な印象を残していく。

「孤独の円盤」は、何よりもスタージョンらしい作品。普遍的な孤独や救いについての物語など、あまりに甘ったるいと思う人はいるかもしれないが、スーパー種族氏もどこかの浜辺で脚の悪い青年と出会えたらいいなとは思いませんか。似た様なスタージョン作品でも、もう少しケレン味があるのがよければ同文庫の『輝く断片』がオススメなのかもしれない。あるいは、もっと硬質で、リアリティのある、となってくるとカーヴァーの作品(「大聖堂」とか)を挙げることになりそうだ。


アニー・ディラードという作家の作品にすごい一節を見つけてしまったので(!)ぜひ読みたいのだが、あいにく全部絶版なのだなあ。

アンナ・カヴァン 『氷』(バジリコ)

2015/03/01

何ら持病を持たない私たちが痙攣を得るためには、そこに装置が無くてはならない。

痙攣的なギターソロを吐き出し続けたゆらゆら帝国時代の坂本慎太郎にとって、それはおそらくファズであり、全編に渡って痙攣的な想像力が支配するカヴァンの『氷』においては、少女という存在が装置であった。

最も古くから存在するギターエフェクターである ファズの本質は破綻にある(私は勝手にそう考えている)。まず、バリバリ、ブチブチ、ガリガリと形容されるその出音からして破綻している。サステインは無限に伸びるかと思えば思わぬところで裏返る。コードを弾いてもそこに和を感じることは無く一個の拳のように叩きつけられる音があるばかり。だからこそ、その耳馴染みの無い様徹底的に変換された音が支配するフレーズは、どうしてもスムーズなものにはなり得ず必然的に痙攣し、また、それが異物として聴覚を強引に通過して行く瞬間、生理的反射のひとつとして私たちは痙攣を催すのである。

『氷』において異物は少女である。彼女の存在は、主人公を変容させ、“長官”を変容させ、主人公の感覚を通して私たちの認知する世界を変容させ、凍てつかせていく。蛮族が要塞のある町を遅い、抗いとしての無意味な送信機の敷設が頓挫し、終末の世界を大型装甲車が疾駆する。少女の像も一見変容しているように見えるがそうではない、私たちの感覚器である主人公の感覚が変容しているのだ。彼女は変化することがない、なぜなら彼女は装置だからである。やってきた信号を、痙攣的な信号に変換する装置。

適切な痙攣を求めるためには、適切な痙攣の装置が必要なのだ。
適切な痙攣、成功すれば、恍惚的なめまいと、恍惚的なしびれが待っている。