羊の頭

SFと日記と。できるだけ無意味に書きます。

神林長平『小指の先の天使』(ハヤカワ文庫JA)

透明--透徹な神林長平の世界観を、いつから受け付けられなく感じるようになったのだろう。少なくとも高校生の頃の私は、思考する機械に憧れたし、体温を感じさせないが故に磨かれた人間の魂への讃歌へ共感したものだが。


年末の雑事の隙間に、犬の話と猫の話を読んだ。
犬の話は、松浦理英子『犬身』(朝日文庫)。上巻で溢れるように描かれる犬への愛、というよりは犬という存在へのフェティシズムが奇書感を際立たせて大変ご満悦だったのだが、下巻に至ってテンポの悪い犬視点のサイコサスペンス調のなにかに成り下がるという大どんでん返しを味わわされた。きっての猫派の私としては所詮は犬っころの話と思い、口直しにと思って手に取った『小指の先の天使』の「猫の棲む処」は神林長平の世界観そのものであった。

『ヒトは、言語的な理解を決して許さない大自然界と、自らが生じさせて支えている人工的な世界とを、ペットを介して結びつけている。ペットは単なる愛玩動物ではない。人工的な言語世界と自然界とをつないでいる接点だ。』
『(そうだ、知られずに、生きていくがいい。ヒトの幻想の外で生きるんだ、ソロン。)』
(「猫の棲む処」)

そこで描かれる、技術に、自然に、超越され置いていかれる人間存在の在り方。卑小であること、無力であることを突きつけられ、そこで何を感じるか、己の感性を試されるような緊張感。

かつて私の愛した神林長平がそこにいた。
しかし、今この場所にかつての私はいない。

20代に入ってから、「父の樹」に出てくる、ひとつずつひとつずつ内臓を失っていった主人公の父のように、神林長平の魂の透徹さを捨てていった私は、かつての私とは似ても似つかぬものに成り下がってしまった。今の私には『犬身』の如何ともし難い人の間の情のもつれに身の寄せ処を感じてしまい、ぬるぬるとした、粘っこい情と身体の繋がりに縛られることを好む癖がついてしまった。


今日もまた、抜き差しのならない話を済ませた後で、別の一人へと甘えた声を鳴らし、そうしたことを悔やむでもなく楽しむでもなく。
犬の身に落とされるのが正しいのかもしれない。

ポール・オースター『オラクル・ナイト』(新潮文庫)

数年ぶりに初売りに出たら、目に留まったキャメルのハーフコートを買ってしまった。形がいいな、と簡単に合わせてすぐ会計してその場から着せてもらったのだけれど、ポケットの口を塞ぐしつけ糸を抜いてもらうのを忘れてしまい、帰り道、二時間近く寒風を指の先に吹きかけ続けられて大層参った。

 

こちらも初売り、というわけではないのだけど、下宿に戻る新幹線の中で読んだのがポール・オースター『オラクル・ナイト』。奥付を見ると、平成二十八年一月一日発行。

長編というには少し食い足りない長さではあるが、この作品随分と腹に溜まる。物語の中で語られる物語、が異様に多いのだ。読んでいる内に、作中作だけでなく、エピソード、意見、経験、回想、類推、予言、一人の人生も、また全て物語なのだと気付いてくる。物語たちは照応し、呼応し、分裂し、結合し、増殖し、やがて死にもする。そう、物語の死ぬ瞬間を我々は目にする。人生の終わりが実際そういう側面も有するが、物語の死とは、ピリオドが打たれないこと、完結しないこと、つまり、出口のないこと、だ。

この物語の中には出口を失った物語が、とりあえずは、明確に、ひとつ現れる。

死んだ物語を前に、我々本読みは思った以上に打ちのめさされる。

 

この物語は、物語のあらゆる側面について、模索しているように見える。確かに物語は整然とした対を形成し(重症から復帰したおぼつかない主人公と、まっさらの青いノート、この作品には呼応だらけだ)、物語の死を見届けた中盤以降、語られる物語は、四重奏の様に並行しながら調和する。パズル的な美しさは高い。しかし、そちらの調和とは別にこの物語は、物語の存在、力そのものに言及しようとする指向性を示してはいないか。

『言葉は現実なんだ。人間に属するものすべてが現実であって、私たちは時に物事が起きる前からそれがわかっていたりする。必ずしもその自覚はなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間人のなかにあるんだ。書くというのも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こさせることなのかもしれない』(『オラクル・ナイト』)

オースターはかつて『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』でアメリカ中のエピソードを集めていたが、そこから、物語のるつぼから、何をすくい上げたのだろう。すくい上げたのは、問い、ではなかったのだろうか。物語の持つ力に、その根源に対しての、問い。この作品は、物語を積み上げてその力を示すと同時に、その力の出所を我々に問うている。死んだ物語にすら力の宿ることを見せられ、何を思えばいいのか。

応えではなく、問いの物語としての『オラクル・ナイト』。

 

『物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ』

そういって締めくくられる、鼠取りにかかった悲しいまだ若い鼠の話があったが(鼠取りのエピソードもまた、その物語全体と呼応していた)、確かに、入口と出口はあるべきなのだ、この現実がそうでないことで悲しいことが沢山起きていると去年は随分と学んだのだから。

そのくせ入口のないコートと、出口のない物語を抱えることになった2015年の出口/2016年の入口とは何なのか。立ち尽くさざるを得ない。

 一歩でも進めれば、景色は違うだろうか。

トルーマン・カポーティ『夜の樹』(新潮文庫)

逃げ場などないのだということをなんどもなんども実感する。

8月、とても慕わせて頂いた方が自ら命を断たれた。同じ月にネットの知り合いも同じことをしていたと、翌月になって知った。今までに死ぬことについて、考えていたこと、費やしてきた時間、すべて無駄になった。8月のある日に現実が定義を書き換え、それまでの執筆者たちは永遠に弾劾されることになった。現実における死の感触、不可逆性、無機質さ、非連続性、あんなものはなにものより暴力だ、完全にあてられてしまった。思考の枝葉が伸びる際、私の頭の中のその領域、8/4のエピソード群に触れる瞬間、枝葉はその成長を止めてしまう。あるいは無為回路に入り込んだ電流のように、抵抗に削られつつその力を失っていく。あたまのかいてんがにぶくなったとかんじるひがふえた。

もうそこから、みつきもの間、動けないでいる。

頭が働かなくても、体は勝手に動くものだから、わけのわからないことを沢山したし、している。抜き差しならない方へ進んでいく。ひとりかふたりの友人が声をかけてくれるが、残りは、にやにやしている。

ここまで書いてみて、これだけがこの150日ほどの私信なのかと考えたら、ほっとした。たいしたことでないように、見えた。


本の話を少しだけ、
『夜の樹』は、カポーティに関するつまらないイメージを吹き飛ばしてくれた。カポーティはお洒落な都会派の作家などではなく、集合、集団で逆説的に孤立していくタイプの、飢えを抱いた因果な人間(人間の因果?)を描写してしまう作家(ティファニー、で気づけなかったのは本当にボンクラだなあ……)。自分の全ては所有されたくないが、他者を全て所有したいという欲望を余さず描いてしまったのは、カポーティにとってはマゾヒスティックな快楽だったのかもしれない。
所収作、「無頭の鷹」を読みながら確かに思う。そのような充たされない欲望を前にして、人がどうして狂わずにいられよう?

『やがて彼は緑色のレインコートを着た女の子を見つけ出した。五十七丁目と三番街の角に立っている。そこに立って煙草を吸っている。何か歌を口ずさんでいる。レインコートは透明で、黒っぽいスラックスをはいている。素足でかかとの低いサンダルをはき、男ものの白いシャツを着ている。髪は淡い黄褐色で、男の子のように短く切っている。』
『やがて、彼女がゆっくりとした足どりで、街灯の下に近づいてきて彼の横に立つ。空は、雷で割れた鏡のように見える。雨がふたりのあいだに、粉々に砕けたガラスのカーテンのように落ちて来たからだ。』(「無頭の鷹」)

ではまたしばらく。

村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)

ニューヨークに行くことになった。

高飛びのようなものである。
女の子やら大学の先輩やら、そういったわずらわしい関係に、蓋をする感覚である。
これは持って来られた話で、急に決まって、急に発つので、実感もない。どこに行こうという考えもない。ただ、逃避としての、安楽な選択としてアメリカ行きがあったのだ。14時間も飛行機に乗って、その目的がただ逃げたいだけというのは、本当に始末の悪い話だと思う。

『彼女はアクロポリスの柱を触るためにギリシャに行き、死海の水に足をつけるためにイスラエルに行く。そして彼女はそれをやめることができなくなってしまうのだ。エジプト行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り……、そんなことをしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でも様々な表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくは一番まっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。理由のつけられない好奇心、現実的感触への欲求。』(「メキシコ大旅行」)
一編目のメキシコ大旅行でこう立派にカマしてきた割には、この旅行記集での村上春樹村上春樹然としていない。実際、この直後の内容は、メキシコという国はそのようなまっとうな理由ではないもっと根本的な理由を必要としている国だ、と述べているくらいである。この本は、いわゆるハルキ節がとても弱い。
当たり前なのかもしれない。無人島で虫に怯えたり、メキシコでカーステレオに苛立ったり、中国で絶望的に汚い便所で用を足せなかったり、アメリカの代わり映えしないモーテル群にうんざりしている村上春樹は、いわばホームでプレイできていないのだ。冷えたビールも、シンプルなサンドイッチも、シックなジャズも、コケティッシュな不思議ちゃんも無い「この世の果て」みたいな所で(ひたすらうどんを食べさせられるなら、讃岐だって確かにそうだ。異界だ。)気の利いたことが言うのはとても難しい(とても、に傍点を振りたい)。
だからこそ、この本は新鮮である。
割り込みおばさんの足を真剣に蹴ったり、同行のカメラマンに石を投げつけられるのを他人の振りをしてやり過ごそうとする村上春樹が見られるのは中々ないし、何より90〜ゼロ年代村上春樹を印象づけたこの世界のシステムを分解し、再構築させようとする小説家としての視点が暴露しているのだ(言葉の響きを知らない人々に囲まれたがために餓死しかかったインディオの青年や、草原の片隅に追い詰められ一発の銃弾に仕留められる雌オオカミについて語るとき)。

終わる間際にはこんな一節があった。
『でも僕はうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するのはただの僕ら自身でしかないんじゃという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけではないのだろうかと』(「ノモンハンの鉄の墓場」)
メトロポリタン美術館に、Momaに、グッゲンハイムギャラリーに、セントラルパークに、私の断片が転がっているというのだろうか(とりあえずそこしか決めていないのだ)。
もしそうなら、そこでは、私が私であることを思い出す、私を“立ち上げる”、切実な過程が旅と呼ばれるのだろう。
とりあえず今の私が、逃げながらばらばらになった自分を継ぎ足していかなければならないのは事実だ。
『何もしないでいると、頭の中は様々な想念でいっぱいになってしまう。いろいろな言葉や、ちょっとしたフレーズや、活字で読んだ文章や、……そういったものが次から次へと登場してくる。それがわずらわしかった。また、それを紙に書きつけてみたりするのも、僕はたまらなくいやだった。ノートに清書された詩を目の前につきつけられたりするようなことが度々あったが、ぼくはどうしても好きになれなかった。ひとことでいってしまえば、そういうものはあまりにも弱々しかった。そう思えた。すぐにひねりつぶされそうに見えた。安易だと思った。』(山際淳司『彼らの夏、ぼくらの声』)
本を読むもの、ギターを弾くのも、映画を観ることも、いったん置いておく。
これまでにないやり方を、強度のあるやり方を。
ほんとうに私はヤワだったのだ。ようやく気づいた。

 

佐々木丸美の『雪の断章』を読んでいる。ほとんど透徹と言っていい美しい文体。これがこの語り部に与えられたものではなく(それだけでも十分素晴らしいのだが)、この著者本人のものなら、もっとこの透徹に身を切られることができるのかという喜びがある。

ジャック・ロンドン『野生の呼び声』(光文社古典新訳文庫)

ふと外に出ればどこまででも歩いていきたくなるような日々が終わった。今夜も大気は水を吸って鈍重になり、なにもかもが忌まわしい季節に向かっているのを感じる。
このひと月、軽やかな日々の夜を、頭をからっぽにして過ごしていた。これは未だかつてなかったことで、ほんとうに、すべて、感情に任せた。打算も無く人に言葉を吐き、ひきつけようとし、ひきつけたと思えば離すまいとした。しかしすり抜けて行くものを止めは出来なかった。かと思えば向こうから飛び込んでくるものがあり、それは勝手に私の中に寝床を作り、そのくせふらふらと家を空けたりすることをやめはしないだろう様子だ。
とにかく、ここまできた。ここはきたことがないところ。知らないところ。
ずっと息が詰まっている。
『そして、深々とふけていく寒い夜々、彼が鼻面を星空に向け、狼さながらに長々と遠吠えするとき、吠えているのは彼の先祖たちーーとうに死んで、塵に還った先祖たちーーが、星空に鼻面を向け、幾世紀も、幾世紀もの時を超えて、彼のもとまでその声を響かせているのだった。そのとき、彼の声の響きは彼らの声の響きとなり、それは彼らの悲哀を歌い、夜の静けさと、寒さと、そして暗さとが、彼にとってなにを意味するかを伝える歌となるのだ。』
私の中に、膨大な感情を認めたのだ。自らの内から流れ出すものがあり、どんどんと掘り下げて行けば“たまり”があるのを見つけた。そこに手を突っ込んだ瞬間に、理解せざるを得なかった。今まで分かろうともしなかった、あらゆる時代の人の中に流れていた感情と、その発露を。求めるということの歓びと哀切が、詩になり、歌になる意味を。
『北極光が頭上で冷たく燃え、星々が凍てつく空に踊り、そして大地は雪のとばりの下で、かじかみ、凍える、そんな中で歌われるエスキモー犬たちのこの歌は、あるいは果敢な生への挑戦であったかもしれない。しかしそれが短調で、長く尾をひく哀痛な訴えとして、生存の苦しみを表現したものとして、聞くものに訴えかけてくる。これは古い歌だった。犬という種族そのものと同じだけ古い歌ーー歌というものがどれも悲しいものだった時代、若かりし世界に響きわたった最初の歌のひとつだ。そしてその歌に、さらにその後の数知れぬ世代の嘆きが加わって、この苦悩の訴えとなり、それがバックを異様に感動させることとなった。彼がその歌に合わせてうめき、すすり泣くとき、それは野生の父祖たちの苦しみとおなじ、太古からの生の苦しみを帯びていたし、彼の訴える寒さや暗闇への恐怖と神秘は、父祖たちにもやはり恐怖であり、神秘だったものだ。』

主人公バックが調教師の棍棒に打たれ、傷を負ったことが野生を取り戻す一段目となった様に、傷つくことがなければ、全ては上手く行っていれば知り得ることのない事ではあった。

ポケットの中の硬貨をもて遊んでいるつもりだったのだ。かりかり、という音を楽しんでいた。しかし気付くことになる、それがガラスの欠片であることに。指先には細くて治り難い傷がびっしりついている。ひとつひとつをなぞり、その深さと曲がり具合や裂け具合、どんな血が流れたかを見る、どんな欠片が、出来事が、それを作ったかを復元しようとする。この文章はその一環として書かれている、のだろうか。どんな方法をとるにせよ、バージェスのアノマロカリスの様に復元は容易ではなく、沢山の誤謬と勘違いを抱えてやっていくのだろう、今暫くの間は。
同じ様に、意外な復元像が時にキュートということはあるのだろうか。

もう夜が明け始めた。私のための時間が早めに切り上げられてしまう様なこの季節は嫌いだ。とにかく、世界が忌まわしい夏に向かって急速に移動している。


現代詩が再び面白くなる時期がきた、きっかけは井坂洋子。意識についてもまた知りたいことが出てきて、ミンスキーやら栗本慎一郎やらを買い込んできた。これがはたちそこそこの人間のすることかつまらないなとも思う。

レイ・ブラッドベリ『火星年代記(新装版)』(ハヤカワ文庫)

つい最近、別れ話を切り出した夜に吹いた口笛は事の他大きく響いた。
昼下がり雨の止んだ一瞬に目の前を横切った黒い蝶は何か暴力性を帯びていた。
状況はその時々について異なる性質の時間を有しているのは勿論、その時間を通じて感覚を揺らがせる。
『今夜の大気には、時間の匂いがただよっていた。トマスは微笑して、空想をかけめぐらせた。ひとつの考え。時間の匂いとは、どんなものだろう。埃や、時計や、人間に似た匂いか。時間の音とはどんな音か。暗い洞窟を流れる水の音か、泣き叫ぶ声か、うつろな箱の蓋に落ちる土くれの音か、雨の音か。そして、さらに考えれば、時間とはどんなかたちをしているのだろう。時間とは暗い部屋に音もなく降りこむ雪のようなものか、昔の映画館で見せた無声映画のようなものか、新年の風船のように虚無へ落ちて行く一千億の顔か。』(「夜の邂逅」)

例えば、宇宙の時間の基本的性質は永遠である。その中では、どんな種類の時間も極小の幅しか持てない。私たちは語られる物語の中に一瞬の瞬きを、相対的に見出す。
『夜ともなれば、風は死んだ海底を吹きわたり、六角形の墓石のあいだを吹きぬけ、四つの古い十字架と、一つの新しい十字架の上を吹きすぎる。小さな石の小屋には明かりがともり、その小屋の中には、吠える風と、舞い狂う砂と、冷たく燃える空の星にとりかこまれて、四人の人影が見える。一人の女と、二人の娘と、一人の息子が理由もなく、暖炉の火をかきたて、話し合い、笑いさざめく。
来る年も、来る年も、毎晩のように、なんの理由もなく、女は戸外に出て、小手をかざして空を眺め、緑色に燃える地球を、なぜ見つめるのかも分からずに見つめ、それから小屋の中に戻って、暖炉に薪を投げこみ、風は吹きつのり、死んだ海はいつまでも死んだままに横たわる。』(「長の年月」)
長い時間、長い長い年月について思いを馳せていると、どうしても胸が苦しくなってくる。この苦しみはどこから来たのか、私たちの想いが一瞬でも在ることの苦しみか、一瞬にしか足り得ないことの苦しみか。双面の化物のように問いは何度も裏返る。永遠の命、想いの永遠化への渇望。しかし如何なる外部化された記録も強度が足りない。「百万年ピクニック」では、想いを継ぐのはやはり人間、連続的なGeneと物語の器であるとなったが如何に。

『仲間には理解してもらえない歌を歌い続ける「世界一孤独なクジラ」の発見を目指すプロジェクトの構想が持ち上がり、資金調達サイトで出資者を募っている。このクジラの呼び名は「52」。52ヘルツの周波数で歌っていることに起因する。もう何年もの間、この周波数を出し続けているのに、仲間からの応答はない。仲間のクジラは違う周波数を使っているため、たとえ「52」の歌が聞こえていたとしても、自分たちの歌とはあまりに違っていて理解できず、応答しないという。それでも「52」は歌い続ける。そこから「世界一孤独なクジラ」のニックネームが付いた。(中略)同サイトの説明によると、「このクジラの姿を見た者はまだ誰もいない。それでも存在することが分かっているのは聞こえるから」。(CNN)』

この話を見かけてから、「52」にとっての人間のような存在が、人間にとってもいてくれればいいな、と思う。さらにその種族は、全く異なる時間と空間のレンジを有しているのに、それでも私たちの想いを記録し、解釈し、自らのうちに混ぜ合わせることも厭わないのだ。
何と呼ばれるのだろう、彼らは。
火星人か、あるいは単に、神。

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』(河出文庫)

ワタシハミジメデアリタイ
私たちを捕らえて離すことのない、これはもう、欲望である。
勿論、無条件でそうなりたい訳ではない。私たちが私たちの世界において、私たちの許す範疇においてである。甘えではない自己憐憫でもない、繰り返そう、これは欲望である。

ワタシタチノオウコクデ
ワタシハミジメデアリタイ
収録の作品において、これは祝詞にすら見える。

筋のようなものは「二百回忌」にしか存在せず、この作品はあまりパッとしない印象。いかにも日本風の土俗的な枠にマジック・リアリズムを落とし込んでみましたという感じ。
面白くなってくるのは、筋らしき筋の全く存在しない「なにもしてない」である。ここで行われるのは日常を極限までミジメに演出する試みだ。そしてそこでは、酒を抱いて一日を過ごすのでもなく、借金取りにドアを蹴破られるのでもなく、養ってくれる女を殴るのでもない。アレルギー体質故に腫れて体液でぐじゅぐじゅになった手を放置し、観葉植物に妖精を幻視し、我儘な母親のご機嫌を取りに実家に帰る。前者が西村賢太的な陽のミジメなら、後者は徹底した陰のミジメである。そして、それは自分の意志で貫かれるミジメさでもある。私は、外界からの刺激を徹底してミジメさに変えるフィルターと化し、日常をミジメに染めていく。
さて、そこには何が残るのか?
『ポトスは憑かない、ポトスはおとなしいし、こちらの考えている事など気にもしない。だがポトスが憑かなくても私が憑かれるかもしれないのである。私がポトスの中に妖精をでっち上げそれを引き出して遊ぶ。そうして、乗っ取られているうち、生きる喜びや欲望の全部が、ひたすらただ見ることに昇華された、透明な喜びに満ちた妖精が出現する。』
(「なにもしてない」)
そこには救いがある。自らを落として行くことで、外界の事物は相対的に立ち上がってくる。私はそこにすがりたいと思うのだ。ポトスにおしゃべりな皮膚科医に紀子様に。

ミジメデアリタイというのは欲望だ。それは神を欲する欲望である。

ワタシノ、ワタシダケノカミサマヲ、ドウカ。

 

 

「タイムスリップ・コンビナート」にはすごくいたいけな挿話があったので、これはすごく良かった。
『三、四歳の私はそこの国産チョコレートが好きだったらしい。店の前にはエスキモーかどこかなのだと思うが、看板代わりに、木で作った厚みのある白熊の人形が置かれていた。それは大人の背丈よりずっと高かったように記憶している。
当時の私はあまりにもセコい子供だったらしい。祖母にそのチョコレートをねだる時に、素直にチョコレートを買ってちょうだい、と言えなかったのだという。チョコレートが欲しい時私はいつも、少し不機嫌な顔付きになり、祖母の背後から割烹着を引っ張り、「はしのそばのくまをみにゆきましょうよ」と対等な言い方で誘ったのだった。』
(「タイムスリップ・コンビナート」)」

声に出して言いたい。はしのそばのくまをみにゆきましょうよ。